4.終始と三項

愛読の伝道。(参考→マタ7:15,詩10:3-4)

α:日本人は道徳的には旧約時代の“選民イスラエル”にさえ優るところがあります。しかし、霊的に(すなわち信仰的に)は“カナン人”に近しいかもしれません。自分で言っていて苦しいですが、実際にそうなのだと思います。ただし、彼らは道徳的に最悪の民族だったので、その本質は全く違うことを明言します。何が言いたいかと申しますと「日本人はどの民族も比肩し得ないほど、変わるに相応しい民である」という希望です。異教が混在しながらも道徳水準が非常に高いというのは、考え難いことです。日本人が潜在的にどれほど優秀で“選ばれし民”か気づくべきです。しかし、そのゆえにサタンが忍び寄っています。

§:ネットの普及と同時に、表現の自由が誤用されるようになりました。それは“本来的”には、人々が多面的な自己表現を通して成長していくため(つまり、善用されるため)にあるはずのものです。そのツールが「他者否定によって自己を肯定する」という動機によって動くようになっている。“表現のツール”によって自分が貪り(支配欲)に目覚め、結果的には道具に“自己の尊厳”をコントロールされているのです。これがサタンの思惑でなく何でしょう。「悪魔なんて知らんよw」というのなら、今日、自分が誰かを蔑んだことがなかったか確認しなくてはいけません。私は、ありました。つまり「自分が悪魔になりかけた」ということです(先の“サタンが忍び寄る”とはそういう意味です)。

§:実際に始動して分かるのは、伝道のはたらきは非常に困難だということです。技術面では極めて高い能力が要求され、精神面では挫けない強さが要ります(ですから私などは、活動こそしているものの見習いもいいとこです)。でも、一番危ういのは独善的になって自分が悪に堕すことです。なぜ伝道を志す人が少ないか、よく分かります。自己を肯定するでなく[神]を讃えるのが伝道者の使命です。しかし、それは非常に複雑なバランスで成り立っています。他者の“誤解”と向き合うことは往々にして何らかの否定を伴うゆえ、自己愛(エゴ)に支配される可能性があるのです。神を愛する者は御言葉に生きねばなりません。それは「意思を行使して“聖書の教え”を伝える」ことなのです。

§:しかし「私は誰にも洗脳されていません」。ここが要点です。私は神の導きを受けながら「聖書を愛読しているだけ」です。地域教会にも属していません。人からもほとんど教わっていません。それが証拠に“キリスト教”についての知識は「人並み」です。ですから、そもそも洗脳される余地がありません。にも関わらず私が伝道に駆り立てられている事実は「神に遣わされている」以外の何物でもないと感じています。私はかつてと違い「同胞に回心してほしい」と思っての伝道はしていません。そうではなく「せずにはいられない」という“召命”に従っているのです。もし他者を否定することで自分を肯定していたら、それは貪りです。ですから、私は自分を否定することで他者を知ろうと、愛に努めます。そうすることで、そのつよきゆえに躓いてしまう(神への信仰を躊躇う)人の「愛」がみえると思うからです。

Ω:本当の意味で「聖書を愛読する」というのは“頻繁に読むこと”ではありません。私の言う「聖書愛読」は「聖書という“神の愛なる御言葉”を読みとる」ということです。今の世は「自由」を掲げながら不自由になっています。なぜなら、人々が明確な行動基準を失っているからです。“意思を行使する”すなわち“考える”ことを放棄したら、獣へと堕落してしまいます。はたらき人として「聖書に生きるべきだ」と私は一貫して主張し続けますが、何より、皆さんが吟味なさってください。「キミは神に操られているよ」で私は本望です。自己愛のために闇に堕ちてしまうなら、神の愛に私は生きたいからです。私は間違いなく神に愛されています。それは「あなたは神に選ばれし者だ」と皆さんに伝える者として、です。

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