いかがわしい宗教は「いい加減」です。そういった類のものは“洗脳(コントロール)”の原理に囚われているので、信者は自分の属するものについて言明できないですし、そもそも教理も何もあったものではありません。概念そのものに悪い意味はない“宗教”ですが、偽物を含めたすべてが一括りにされたら、たまったものではありません。便宜的に仕方なくそういった言葉を用いることはあれ、私は聖書の教えを「真理」と呼ぶべきだと思っています。
そして、“よからぬ曖昧さ”は信徒らしき人にも言えます。クリスチャンを名乗っていながら自分の状態も把握できずに「私(たちだけ)は天国にいけるんだ」と終末に偏った希望を置いている人は大勢います。そういった人たちには“救われていない可能性”さえあります。なぜなら、聖書に書かれた唯一の救いとは“からだ(人格を含めた存在の総体)”が贖われて新生するという意味で「生きながらにして御国に至ること」だからです。神が見えないように、救われた感覚を完璧に言語化することはできませんが、その何たるかについては出来ますし、信仰生活のためにも伝道の観点からも、聖書の教えを言葉にする習慣は大いに必要です。
さて、救いへの道は“福音の三要素”を信じることです。
すなわち
1)主イエスは私たちの罪のために死なれ、
2)墓に葬られ、
3)三日目に甦られた。
ということ。
決して、付け足しと差し引きがあってはなりません。
(1)は、「キリストが私たちの罪を贖ってくださった」と感謝して受け入れることです。
(2)は、ご自身に罪は全くありませんが「主イエスが人間としての性質を持っておられたがゆえに“我々の罪を代わりに背負って死することができた”」と認めることです。
(3)は、「主イエスが子なる神であられたゆえに甦られた」と、神によってのみ可能な贖いを信じることです。
この要素を信じたら、その時点で救われ、信徒です(洗礼は、信徒としての自覚を得るために受けるもので、救いの条件ではありません。ただ、とても意味のあることです)。
では、そうして信徒になって得られる救いとは、どのようなことでしょうか。
①父なる神と和解し、罪が赦されているという安堵
②子なる神が命を賭した贖いから復活なさり、とりなしてくださっていることへの感謝
③聖霊なる神が自身に宿ってくださり、内から与えられる活気
が代表として挙げられるでしょう。
総じて「神の愛を実感すること」とまとめられますが、その祝福から派生する“明確な幸福”は果てしない悦びです。
今、キリスト教が抱えている問題は、“反キリスト”たる、教えを偽る敵対勢力によって正統な教えが貶められていることです。異端の存在が正統な教えを曇らせています。日本のキリスト信徒は1%に満たないと言われていますが、正統信仰者となったら、もっと少ないでしょう。しかし、サタンの悪事も神の前では無力です。なぜなら、聖書の御言葉は不変だからです。その御力をあらわすために信徒は闘うべきであり、学校で教師が道徳について問われるように、その生き方を以って聖書の教えについて尋ねられているような立場にあるのです。
人間的な道徳は「自分のためになるから」という点に集約できます。対して、聖書道徳は「他者のためになるから」との“隣人愛”で言い表すことができ、神から無償の愛を受けた者が言葉で実行していくべきことです。信徒が曖昧な立場でいると、未信徒が躓いてしまいます。私も聖書的な生き方を自問自答しながら行動してゆきたいです。
今日はここまでです。
最後までありがとうございました。