2.聖句の悦び

文字によらず。(参考→ロマ7:4‐6)

『ローマ人への手紙』の7章は、自らの力で“聖化”の過程を歩むことの困難さを示しています。

子なる神イエスをキリストと信じ、父なる神に義とされる“義認”が過去形の救いとすれば、

内住した聖霊なる神によって、キリストに似た者になっていく“聖化”は現在進行形の救いであり、

死後に達成される霊的な完成の“栄化”は、いわば未来形の救いです。

旧約の時代、イスラエルの民は律法を行うことで神の義を求めていました。

しかし、何度も叱責の描写があるように、律法を全うする際に、信仰が伴っていなければ意味がありません。

事実、モーセの律法が与えられる前の時代に生きたアブラハムは「信仰によって義と認められた」のです。

いわば、律法というのは、それを行うことで神への信仰を示すものです。

聖書冒頭の“モーセ五書”のうち、『レビ記』,『民数記』,『申命記』にとりわけ細かく明示されている旧約の律法は、合計すると613あるとされます。

新約の時代に生きる我々が律法のことをあまり知らないのは、イエスが現れたからです。

律法には細かい祭儀規定があり、“ささげもの”や“祭司”に関わるルールが細かく書かれていました。

しかし、新約に生きる我々は、イエスが我々の罪を贖うささげものとなられ、復活し大祭司として父なる神との間をとりもってくださるのを信じることができます。

イエスをキリストとすることは、

私達の罪のために死なれ (1.贖罪の→)

墓に葬られ (2.→ささげものとなられた。そして→)

三日目に甦られた (3.→今も生き、大祭司であられる)

と信じることです。

キリストを信じることは、

イスラエルの民が行っていた数多くの“わざ”である律法を

三要素の“信仰”に集約することであり、

救いに至る道という意味はもちろん、

近道になったという点でも、グッドニュース(福音)なわけです。

さて、ロマ書(『ローマ人への手紙』)では、

「律法が示されたとき、私たちに罪が示された」

という趣旨の内容が書かれています。

ようするに、

「~してはならない」

と言われると、罪はその機会を捉え、

「~をしてしまえば?」

と誘惑してくるということです。

では、律法はないほうがよかったのか。

「断じてそんなことはない」と使徒パウロは言います。

A)“ルール”が示されなければ、“ルール違反”はありません。

しかし、

B)“ルール違反の可能性”がないところに“秩序”は成り立たないでしょう。

ですから、

律法と秩序の間には複雑なバランスがあります。

そして、

律法を完全に踏襲できたのはイエス・キリストだけです。

だからこそ、

“罪が全くない人間”であるイエスが十字架にかかり、

“罪に満ち溢れた人間”である我々の罪が“転嫁”されて贖われた

ことを信じるところに意味があるのです。

そのゆえに、

子なる神イエスをキリストと信じた時に、

その信仰によって父なる神と和解し、

聖霊なる神が信徒の内に住まわれる

わけです。

信徒には、

キリストに起きたことが自身にも起こったとみなされ、

「肉(人間的性質)において死んでいる」ので、律法は適用されません。

しかし、

それは、

「律法に反して何をしてもいい」

ということではなく、

「律法を適用する必要がない状態に新生した」

との原理に基づいています。

先のA)とB)は、

神が秩序を願っておられるゆえ、律法という“ものさし”を与えた

ことを私が個人的に解釈したものです。

信徒の内には

聖霊なる神が住まう

というのは、

“石の板”に刻まれた“外にある律法”を視認する

状態から、

“心の板”に刻まれた“内に住まう律法”を確認する

本来的な生き方に進むことを意味するでしょう。

“視認する”ことで肉の性質を理解して抗う

のでなく、

肉の性質は支配権を持たないと“確認する”

ことによって、

罪を犯す必然性はもはやない

との理解から、

(信仰と恵みに基づく)聖霊の導きによって、

自ずと律法の秩序を踏襲できるようになってゆく(聖化)

ということです。

C)“ルール違反の可能性”を感じたとき、自分が“試合会場にいないこと”を確認する。

いわばそれが、キリスト者としての歩みです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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