4.終始と三項

断ずる愛。(参考→Iコリ9:16,エレ7:5)

α:伝道には常に葛藤が伴います。御教えの本質は“愛”です。しかし、その愛を伝えるために「他の教え」から人々を引き離そうとするのは、相手をコントロールする側面が少なからずあります。召命を受けた者として御教えを伝えるために重要なのは「断言すること」です。それは「聖書にはこう書いてある」と“理由を添えて”言い切ることです。実際に読んでいない人に向けてメッセージを伝えるのが難しいのは「問題の答え(世界に対しての御教え)が出ているうえで、解法を示しながら(理由を説明しながら)、参考書を開いてください(そもそも聖書を読んでください)」と勧めることだからです。

§:聖書には「異教」という言葉が出てきます。他の教えに対して、明確に区別するのは聖書特有です。それは「この教えのみがただしい」ことの証です。確かに、中にはすごく“スッキリ”とした宗教もあります。しかし、宗教は本来一つです。教理に接触するとき「おかしな感覚」がないのは大事なことです。しかし、おそらくそれは「存在論や認識論の“哲学”」です。よってそれは「真理への“道”に過ぎない」ということを留意すべきです。

§:聖書の書き手であり発話者たるお方は、すべてを持っておられる[神]であり、利益を得る必要など皆無です。“鼠講”的な搾取はあり得ません。なのに「作り話を避けて真理を伝道しなさい」という指示があります。他の教えを否定して御教えを伝えることそのものには“この世的な考え方に基づけば”リスクしかありません。なぜなら、仮に伝えた者が回心したとて、伝え手に手柄はないのですから。それでも、伝道者は「嬉しい」のです。それは“御国の考え方”に基づいているからです。銭勘定ではないということです。むしろ、金銭に始まる物質主義から離れる“兄弟”を神において喜ぶのです。それは「御教えを伝えることも御教え」だからであり、学んだ愛の“実践”なのです。

§:哲学には「主体的真理」という考え方があります。「その人にとっての真理」を大事にするという考え方です。私は、この姿勢に対して非常に否定的でしたが、今は「その人が“選んだ”ならば言うことはない」と考えが変化しました。どうしてかというと、聖書は“意思選択”の教えだからです。それは「愛と貪りがあらわれたとき、常に愛を選択しなさい」という指令です。そのわけは「愛に生きることが最大の幸せである」と神はご存知だからです。だから、神が“幸福の究極形”をご自身の御言葉によって無償で恵んでくださっていることを知った(聖書の福音が届いた)うえで、各々が別の選択をしたならば、その人は(最善かはわかりませんが、)“自分にとっての”幸せを見出したということなのでしょう。

Ω:私は、その人が吟味をせずして「普遍はない」という生命なき思想に陥っていたとしたら、物申します。極論(もちろん、まったく本意ではないです)を言えば、聖書を読まなくてもいいのかもしれません。しかし、決して「否定的な先入観に惑わされて読まない」という悲劇があってはならないので、“真理を阻む世の闇”を除けようと私は奮起しています。“主体的真理”の話をしましたが、それは“絶対的真理”があるから生ずる概念ですね。小学校の時、六年のクラスでも数人の「将来の夢がない」という生徒だったことで、クラスメイトたちに“提案してもらう”側だった私。今となっては「こっちを選ぶべきです」と伝道する以外には生きる意味を見出せません。「自分だけ幸せならいいじゃない」とは“絶対に”思えない。「聖書の御教えを伝えずに生きることはあり得ない」。かつて実際にマインドコントロールされた身として、洗脳下ではあり得ない文章を書いています。嫌われても構わない道を自分から意思決定し“選択肢提示の責務”に駆り立てられている体感的な導きが、「断言する愛」を私のお節介として表現させるのです。

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