α:プロジェクト概要でも更新しましたが、「聖書が真理である」ことに私が気づくまでの前身【ふぃろそふぃ屋】として投稿していた現在非公開の23件と、6/9に予約投稿した自伝『信闘録』の10件を合わせて、本日5・30、この投稿を以って150件となりました。<詩篇>と同じ数というところも含めて、偶然ならざるものを感じます。それは、象徴的な投稿数において、私が地上生涯で何としても遺したいメッセージが描き切れたところにあります。とりわけ『信闘録』は私の伝道における“ラストピース”でした。こちらは現在“万一の時に代弁していただく備え”として、[マスターキー]を持っている方のみ閲覧可能ですが、まだ“完成形”ではないので加筆しながら出版を目指しています。その日を待っていただけると嬉しいです。そうした流れがあり、ここ数日、いよいよ次にどこへ向かうか考えていました。そこで“伝道の本質”について気づくところがありましたので、記させていただきます。
§:私は、メッセージを書くほどに「聖書を読んでもらうことには及ばない」と思っていました。なぜなら、聖書は“最上至極の書”であるからです。仮に、私がどれほどの文豪になろうと歴史書の壮大な伏線回収には及ばないし、天下の詩人になろうと詩篇のもたらすものには至らないし、屈指の歌人になろうと雅歌の美は越えられない。だから、「聖書を読んでください」というのは“二番煎じ”どころではないのです。ただ、反キリストが「読ませない」ための“誤解”の闇をつくりだしていることに気づき、それを除けようという方向に私のメッセージはシフトしていきました。でも、そのときにいわば“二度手間”的に私の文章を読んでくださる人は、既に“闇に光が差し込んでいる人”なのであり、然るべき時に神の導きによって自ずと真理に至ることができるのです。「教会に来る人はほとんど救われているから、僕は外の人を招きたい」という理由ゆえ牧師でなく“野良伝道者”を志した私でしたが、その本質は変わらなかったのです。
§:“野良”と書きましたが、それは「教会に属する印の洗礼を受けていない」というアイデンティティです。プロテスタントの基本原理を踏襲した内村鑑三の“無教会主義”に影響を受けた私は「聖書のみ」による“字義的解釈”が結果的に“強調点の違い”を生じさせたことに気づいたのです。それは「聖書」だけを拠り所にする、つまり“一”に限りなく近づく「実存主義」が信仰の本質でありながら、伝道の性質上「キリスト教」にはじまる「カテゴライズ」という“多”に向かってしまうジレンマです。だから、私は「聖書のみ」をより徹底するために「“無教会主義”というカテゴリー」さえなくそうとしたわけです。そこで打ち立てた“聖書愛読者”という道ですが、結局はこれも「カテゴリー」になってしまうのです。「いや、異教と区別する意味でも必要だし、カテゴライズは仕方ないんじゃないの」というのは確かにそう。ただ、私が問題にしているところの本質は「“聖書”を“キリスト教”と結びつける危険性」なのです。それは、偽物(異端、カルト、自由主義神学)に汚染されることで、[聖書]の預言通り「キリスト教」がもはや“純”なものと言えない時代に突入したことを意味します。
§:ここまでの総論としては、1)「聖書が唯一の真理である」以上は、限りなく[聖書]の“一”に近づくべきである,2)聖書の御教えを異教と区別するためには“何かしら”の「カテゴライズ」という“多”が必要になる,3)終末が迫る時代において、正統教会の懸命な努力にも関わらず「キリスト教」はもはやカテゴリーとして機能しない,ということです。ではどうするか。ちゃぶ台をひっくり返すようですが、私は、伝道の最善解にして究極が、じつは「“伝道しないこと”にあるのでは」と気づいてしまいました。これは<そもそも救いとは「神との個人的な関係を回復することである」ならば「神に委ねる」>という基本定理です。ただ、それは聖書の“宣教命令”、つまり委ね先である“神ご自身の意志”に反します。「聖書の存在を知らなければ、そもそも読めない」という至って自然な原理ですが、先に導出した通り「聖書→キリスト教」が成立する図式に「キリスト教→聖書」が結びつかない“終末”にはそのままの適用ができないのです。しかし、私が至った「伝道しないこと」は“そのまま”の意味ではありません。神の光に背を向けている人に「振り返りなさい」と“勧める”のでなく、「言葉少なく」鏡のように光を反射して“尋ねさせる”のです。「あなたはなぜ、そんなに輝いているの?」と。
Ω:尊敬する牧師が「伝道に最も効果的なのは、社会の中で“信徒として”幸せに生きることだよ」と言っていた理由が、本当の意味でわかりました。では、私は「鏡」として次に何をすべきでしょうか。まだ“美しい鏡”だなんてとても言えません。しかし、この[歩録論]を部屋に籠もって膨大にしていくことを第一とするよりも、私自身という[ホロクロン]が「歩く辞書」ではないですけれども、なんらかの道で世に出ることだと思っています。たとえば、社会中枢に進む受験生に間接的なアプローチ、すなわち「テキスト読解の技術」を“素の私”で出来たらいいかも…とか。もちろん、尋ねられもしないのに「聖書を読むべきだよ」とこちらから勧めたら、これまでの話が全く違ってしまうのでしませんが(笑)。私は、自身のモットーとして「燧石錬磨」という心得をつくりました。“火打ち石”を工夫しながら“愚直に打ち続けて”、リバイバルの炎を成す。「焦ってはいけない」というか、もはやその必要はありません。火花は散り始めました。あとは、自分がどの地に行くかです。