1.序論
a)宗教と真理
→「宗教は世にあるものを否定する」という考えは大方間違いではない。なぜなら、世と違う行動原理を示さなければ宗教(本来はいい意味である)はビジネスとして成立しないからだ。そういったもの(正確には“シュウキョウ”)と“真理”である聖書の教えが一括りにされたら堪ったものではない。だから私はカテゴライズさせないため意図的に「キリスト教」という言い方をしないよう決めた。
b)聖書の教えはどうか
→先に挙げた粗雑なカテゴライズの事情から誤解が多いが、聖書の教えは厭世的なものではない。“終末”をことさらに強調する偽物のせいでその誤解はいっそう酷いものになっているが、わかりやすく言うならば、『創世記』の神による世界創造の讃美に明らかなように「この世は被造世界であり、そのものは美しい。なれば、そこに相応しく生き方を変える」というのが大枠であり、生きながらにして御国(信仰的に基づく成長)に至ることを目指すものである。ゆえに「死後にどこへ行くか」というのは、いわば「地上生涯の延長」なのである。
2.本論
c)世の否定
→難しいのは、聖書の教えは厭世的ではないけれども、世のほうが聖書の教えを歪めてくるというジレンマである。しかし「それは結局、世を否定することなのでは」という反論は誤りである。つまり、「聖書が言う“世”というのは、世界そのものではなく、世界に在っての“行動原理”である」ということだ。社会システムがどうとか(個人的に思うところはあるが)という話ではなく、置かれた時代や環境がどうであれ、そこにあって愛ある振る舞いができなければ、世(この場合は“世界”という一般的な理解)を否定しているのは、生きている環境に自身の行動責任を押しつける者ではないだろうか。
d)異なる意味
→たしかに、聖書は「世と歩調を合わせてはいけない」と明言している。しかし、この文言においては、先にみたように“世”の意味が一般的な概念と異なることを忘れてはならず、この言葉の意味するのは「普遍的な道徳(神の愛に倣う信仰に基づく行動)を妥協させるような、いわば“普通の道徳”(根拠なき自己依存の行動)に依るな」ということなのである。
e)道徳の正しさ
→なぜ幼い頃に道徳を教えなくてはいけないかというと、端的に言えば「幼子しか道徳を欲しないから」なのであり、「幼い頃に教わることを基準にすると、固定化された価値観によってしか生きられない」というのは誤りだ。その根拠は、大人は道徳的な教化を若者に求めながら、自分を省みることをしないことにある。つまり、自身が教育を受け、その正しさを理解した上で自らはその外にいる事実。もし道徳が洗脳的ものであったならば、それが自然解放的であることはあり得ない。皮肉にも「成人したら道徳教育は履修済みだ」という考え方が「道徳が道徳であるところ(良心は構築されるものであること)」を示してしまっているのである(主イエスは「幼子のような者こそ天の国に相応しい」旨を語っておられる)。
f)普通の道徳
→年齢は人を成熟させない。人間を訓練するのは自己研鑽に他ならない。学びそのものではなく、学ぶ姿勢を教えるのが本来的ではないのか。“大人”と呼ばれる齢の人々が「普通」に対して何の疑いも持っていない。その「普通」がどのように構築されたか吟味もしない。学ぶことは自己を画一化することだったのか。道徳の本質は「普通」という閉鎖的なコミュニティから他者を締め出すことではなく、少数者の意見から「普通」を疑う営みではなかったか。
3.結論
g)普遍の道徳
→この日本において聖書の教えに立ち返る者は未だ1%を越えない。まして正統信仰者の割合はどれほどだろうか。「キリスト教以外のものも尊重しようよ、信仰は個人の自由じゃないか」という声。否である。筆者は他者を尊重したい。しかし、だからこそ否である。「普通」はない。しかし、“普遍”はある。「絶対的なものは存在しない」という論者は、その表現が既に「言語という一つの絶対的なもの」に基づいて成立していることに気づいていない。世界の構造は<真理(聖書信仰)か誤謬(自己依存)か>しかなく、本来の道徳(隣人愛)はこの二項対立を見抜くためにある。しかし、二項の後者(誤謬)の枠内にとどまる域を出ないから、“普遍の道徳(聖書道徳)”に人々は至らず、“普通の道徳”という「疑う」本来性を破棄する矛盾律にあって自己を失うのである。