2.聖句の悦び

最大の飢饉。(参考→アモ8:11)

十二小預言書。『ヨエル書』の次には『アモス書』が置かれています。預言書は明らかな前置きなどがない限り(今回の『アモス書』には冒頭に手がかりがあります)、記述内容から時代を特定するしかないのですが、必ずや年代順になっているわけではありません。というか、学者の間で執筆年代についての盛んな議論が今もされているのです。

その巻がどのようなメッセージを伝えているか、“自由主義の寓意的な解釈”でなく“保守主義の字義的解釈”に立つうえでは、記述された時期を考えるのは重要です。

ただ、預言書が書かれたのは、イスラエルの王政から捕囚前後の期間ですので、極端な時差が生じるわけではないことと、主題はどこまでも「唯一なる神への立ち返り」ですので、そのことを抑えれば大枠は掴めるのではないかと。

アモスは、偶像礼拝に神が怒っておられるとして、イスラエルを糾弾しています。それは、“裁き”の預言であり、その激しさは、ヤロブアム2世に仕えていた祭司アマツヤが、撤回を求めるほどでした。

しかし、この祭司にも顕著な「自分たちが間違ったことをしている自覚がない」あるいは「間違ったことをしていても自分には関係がない」という背信的な姿勢こそが、裁きに値するのです。

7章から9章では、“幻”による裁きの予告とアモスの“とりなしの祈り”が描かれ、最後は義しき者の救いで綴じられます。

その真ん中あたりで、絶望的な飢饉について書かれていたことが、印象に残りました。

それが今回の8章11節で、

<神の言葉に飢えるようになる>

という趣旨の聖句です。

私たちは、神の御手がある中にいるからこそ、霊的に退廃していてもなんとかなるのです。

それは、神が立ち返りの猶予を与えておられるからに他なりません。

その証拠は、「聖書という“神の御言葉”がこの世に存在していること」です。

日本の混合宗教的な現状は、極めてまずいと思います。

「個人的な信仰の問題なんだから、自由にさせてよ」

という声が聞こえてきそうですが、

その自由主義的な態度と、罪が明るみになるから信仰を遠ざける姿勢

に危うさがあるように見えます。

「どうして絶対的に正しいかのように価値観を押し付けるの」

と言う人には、

「人間の自由意志が神からの離反を引き起こし、

神は離反を承知で自由意志を与えた」

との事実を、私は知ってほしいです。

「救いを決めるのも選ぶのも個人の自由でしょ」

との主張そのものを“否定”したいのではなく、

自由な主張ができるところに、罪の性質が現れている

という“指摘”がしたいのです。

つまり、

「神がいるかいないかは、個人が決めたらいいんじゃないの」。

よく耳にするこの台詞は、

「個人が決めたらいいんじゃないの」という“自由意志”と、

「神がいるかいないか」を人間の側が規定しようとする、離反という“罪”

すなわち、

“エデンの園”での出来事を“実証している”。

だから私はかくも声高に吠えるのです。

神の言葉に飢える

ことは、神を求めている状態にあります。

その時、

聖書が引ける ならば、その飢えはきっと、よろこびに変わるでしょう。

しかし、

聖書の教えがなくなる ことが起こったら…

11節が強調しているのは、残念ながら後者です。

ただ、

この聖句が引けているということは、

「霊的な飢えを覚える状態 にあって、

霊的な生死の狭間という飢饉 にはない」

ということです。

今回の話は、いつにもまして押し付けがましかったと思います。

不快に感じた人もいるでしょう。

それでも、私が、この30年に差し掛かろうとする人生で至った“悟り”です。

悟りは、“体験”するものであり、言葉での“説明”は可能でも“証明”できるものではありません。

かのゴータマが黙したのもそれゆえだと思います。

この場が、微力ながら実体験への一助になったら。

今日はここまでです。ありがとうございました。

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