『ローマ人への手紙』の12章からは、信徒の生活について書かれています。13章の冒頭では、時代の権力者に対して従順であるべきことを勧めています。
パウロは、度重なる激しい迫害の中、命がけで伝道した使徒でした。その彼が、そういった困難を主導したであろう権力者に従うよう促しているのは、どうしてなのでしょうか。
使徒パウロの論理では「統治者は神が権威を付与した者であるから、神に従う信徒は世の権力にも背いてはならない」ということです。事実、主イエスも使徒パウロも、法律に背いたことは一切ありませんでした。
彼の主張するところでは「権威に対して反発したくなるのは、市民法に違反しようという誤った思惑からである」と。
神の律法に即する信徒も、人間が定めた法であるとはいえ、それが道徳に即したものなれば、従順である必要があるということでしょう。
ただ、神に仕えることを徹底的に強調したパウロが、書簡の一部を使ってまで、ときに福音を妨げるように思える権威を、意図なく擁護するとは思えません。
それはむしろ、「阻まれたゆえ」だったのではないでしょうか。
つまり、自らの伝道が熾烈極まりないものだったからこそ、後の信徒に対して「うまく立ち回りなさい」と助言を残したのでは、ということです。
聖書は、主イエスの教えにあるように「手向かわない」ことを教えています。すなわち、すべての行動原理に愛を据えるということです。権力には武力が伴います。もし、彼らに腕力を以って抵抗したらどうなるでしょうか。それは「聖書の教えに反することによってしか対処できないこともある」と示してしまうことです。父なる神は「復讐はわたしがする」と言っておられます。新約において神のゆえに殉じた人物たちは、主イエスの行動に倣い、その教えを体現しなくてはならないと覚悟していたのでしょう。
とはいえ、信仰を抑圧する独裁政権があったら、黙っているべきでしょうか。
聖書によれば、それは終末に現れるもので、“その時”まで適用されません。
ですから(現時点で)「信徒が闘うべき相手は国家ではない」ということになります。
では、真の敵は誰でしょうか。大きくは三つ挙げられると思います。
一つは、「この世的な価値観」。これは、同調という性質を持っていて、押さえつけられるよりも遥かに厄介なものでしょう。私は以前とは違う存在的な立場にありますが、未だに猥談をされると、毅然とした態度が取れません。
二つ目は、「内なる罪」。すなわち、自分との格闘です。私は、今も、“古いパン種”であるポルノ依存の禁断症状を苦悶しながら治療しています。これは、この世で許容されている罪の俗物に浸った報いです。
最後は、「サタンの妨害」。これが厄介なのは、どこからどうやって攻めてくるか予測できないことです。前述の二つはリンクしていますが、これらを狡猾に利用してくるかもしれません。しかも、「信徒として輝く」、つまり“霊的に素晴らしいはたらきが出来る可能性があるほど”奴らは阻んできます。
以上のことから、信徒は国家でも市民法でもなく、霊的な相手と闘う必要があるということです。つまり、どんな相手でも隣人には愛を実践し、その輝きを以って聖書の教えを表現して、それを阻もうと“この世”や“罪”を利用してくるサタンに備える、ということです。
悪魔が、どこからどうやって攻め入ってくるかは分かりません。しかし、確実に分かることは「信徒には神のご加護がある」ということです。私は、真に闘うべき相手を見誤らず、信仰の武具で身を固めます。未信徒の人も、この武具を手に入れてください。武器屋はいつも開店していますから。
今日はここまでです。
最後までありがとうございました。