1.序論
a)躓き
→多くの未信徒にとり聖書への疑念の元となっているのは“復活信仰”ではないだろうか。これは、異端が終末論で煽ること、諸教派に復活を強調しすぎる信徒がいることに発すると思う。かくいう私も、伝道が「一人でも多くの人が救われるべきだ」という動機に基づいた以上は、彼らを偉そうに批判する資格などないし、自己吟味を怠ったことを反省せねばならない。
b)復活
→とはいえ、終末論と復活が重要であることは変わらない。あくまでも、それらを重視しすぎて“この生”が軽んじられることが問題なのである。なぜなら、“いま”を噛み締めて生きることができない者に死後の世界を謳歌できる可能性は低いからである。
c)命
→ただ、今の生が輝くのは「さらに素晴らしい世界が待っている」ことを楽しみにすることにもあるから、復活信仰に期待することそのものは神を讃える意味でもやはり必要である。とりわけ「いつ地上生涯が終わるかわからない」という心配にあてられず、自己という“存在”の次元で物事に処していくことができる信仰ゆえの強さは、信徒の特権であろう。だからして「御国に生きている」という、いわば“永劫直線”(f)の軸に乗っているバランス意識は大切だ。
2.本論
d)永劫回帰
→かのニーチェの思想に“永劫回帰”という人間的な哲学がある。これは「人生は意味もなく循環を繰り返す」ことを確定的に想定して「同じ生を送ることになっても堂々と迎え撃つかのように逞しくあれ」というものである。この考えは真理ではないが“哲学の到達点”であると言えるほどに力強い。当のニーチェは、キリストは否定しなかったようだ。彼が批判の矛先を向けたのは、当時の“腐敗したキリスト教道徳”に対してであった。最期は廃人のようになってしまった高潔な思想家だが、彼の生涯は“聖書の希望なき生”が行き着くところを示して閉じられた気がしてならない。
f)永劫直線
→私は、哲学者としてのニーチェが主張したことは間違いではないと思うし、彼にはキリスト教道徳を批判する権利がある。自ら「なぜ?」を追求し、道ゆく信徒より「キリスト教」と深く向きあった彼は、半端な無神論に対しての模範にさえ映る。だから、彼が言うところの循環的な時間軸に、誰よりも“未信徒的”だった私は多大な影響を受けた。聖書は輪廻的な時間概念を否定している。そして、聖書信仰は救済史を受け入れることであるから「聖書的に生きることは“無限に続いてゆく時間軸”に乗るようなものである」と受け止めている。
e)極限
→信徒は「御国」という軸に“新生”している。だから、同じ被造世界にあっても「この世」という軸に生きている人とは、異国語話者のような違いがある。今の私は「未信徒は滅ぶ」と断言するような“冷め切った愛”は持ち合わせない。ただ、聖書信仰者は「“今”生きている」という刹那にも神の導きを覚える。だから、生涯における一瞬、神を想うその一瞬は、かけがえのない意味を持ち、限りなく凝縮される意味で“永遠のいのち”の体感となる。つまり“永遠のいのち”さえ、実のところ体感するものなのである。
3.結論
f)三つの命
→本論考でみたように、我々は、①地上の命,②死後のいのち,③瞬間的な永遠,を生きることができる。②は信仰領域だが、③において予め体験することができる。地上の命は、大切にすべきである。先に述べたように、地上生涯とそこで共に生きる人々を尊重できなければ、死後の世界がなんになろう。ただ、信仰は体験であるゆえに、私が愛に燃えて世話焼きになって熱くなることがある(あった)ことをお詫びして「ぜひ聖書の世界を感じ取っていただきたい」という旨をお伝えし、結びとしたい。