皆さま、お久しぶりです。
今回より、聖句からの学びを記事にします。その第一回目を九月初日のきょう、スタートします。
『箴言』26章17節には、自分に関係のないことに手を出すことについて、犬の耳をつかむことになぞらえた聖句があります(是非、引いてみてください)。
個人的な話で恐縮ですが、私は非常にお節介焼きなので、この句に気付かされるところがありました。
ちょうど、先日の聖書研究で学んだこの聖句が、そのあと聴いたハーベストタイム(日本における最高の聖書案内だと私は思っています)の『歴代誌 第二』についてのメッセージで引用されていたので、取り上げることにしました。
「しばらく、聖句から学べることをテーマに記事を書いていこう」と思い立った時、「是非その一回目に」と。
『歴代誌』は、聖書において、イスラエルの王政についての歴史を綴ったものであり『サムエル記』や『列王記』と違い、“神殿と祭司”という目線に立って書かれています。
記述は南北に分裂したうち、南王国ユダの王たちに絞られていて、先の二書にはない部分が読み取れます。
私は、自分で聖書を読んでいる時に、「イスラエルでも指折りの善王であるヨシヤが、どうして戦死したのか」と不可解に思っていました。実はそれが、今回の記事に該当する『箴言』の聖句に関わっていたのです。
ヨシヤは、南王国の悪王たちが捨てた律法を、その書の発見とともに民に徹底させるという目覚ましいリバイバルをして、その活躍は、称えるように書かれている一方で、死の描写はあまりに簡潔です。「ヨシヤ王は、エジプトのパロ(王)であるネコとの戦に、変装して出て行き、戦死した」くらいにとどまっています。
しかし、ここで重要なのは、この記述の簡潔さにこそありました。つまり、「ネコとの戦いは、詳細に記述すべき(軍事的)“必要性”がなかった」ということです。
ヨシヤが戦死した原因は、まさに、“犬の耳をつかんだ”ことです。「その犬はネコ(というパロ)だったんだけどね」という牧師の語り上手なこと。
自信がつくと、驕りが生じて、必要ないことに手を出して痛い目をみる。ヨシヤには、隠れた驕りがあったのです。
なるほど、これはまさに知恵の箴言です。この警句を歴史書があかしているのも、考えさせられます。
「人は栄えた時にこそ、気をつけなければならない」というのは、イスラエルの王たちに学ぶべき教訓です。素晴らしい状態にあるとき、それを当たり前と思わず、繁栄の過程での慎重さを思い出して一層の注意をする。あのヨシヤでさえ過つのですから、尚のこと覚えておきたいことです。
これは、新約の隣人愛に通ずるところがあるかもしれないと、個人的に考えました。「自分がしてもらいたいことは、隣人にもそのようにせよ」というキリストの訓戒は、知恵深き者が実践しないと、「キミはそうしてほしいのかもしれないけど、ボクはゴメンだよ」ということになりかねないということです。しかし、キリストの教えは、当然、『箴言』にも通じています。
霊的に成長したキリスト者(当然、私は該当しません)ならば、隣人愛とお節介は、注意している限りは繋がりづらいかと思いますが、やはり聖書は全体を通してどこまでも注意深く学ばなければなりません。
神の恵み(信仰と救いは、すべて神からの一方的なギフトである)と、福音を伝えること(信徒が世の人々と接する)の関係性は、とても難しいです。
まさに、今の私は、「キリストの福音をどのように伝えるのか」という難問に向き合っています。信仰が神の恵みによるならば、人間としては、どのようなことができるのでしょう。
お節介にならず、しかし、よいはたらきができるように、模索を続けたいと思います。
今日はここまでです。ありがとうございました。