A:「現実とは、理解である」
なぜなら、
A2:「何一つとして確定的なことはない」
以上、
A3:「現象に対して意味づけをすることによってしか、現実は存在し得ない」
からである。
ここで、
A3*:「現象への意味づけとは、理解である」
からして、
A*:「理解しようとする能動的な試みが、現実となる」
と言えよう。
さて、
B:「理解は、存在に先行しない」
なぜなら、
命題A3*の通り、
B2:「現象の存在が先にあり、それに対し理解の試みが生ずる」
からである。
しかし、
命題A*が主張されるのならば、
B3:「理解は存在に先行し得ず、現実は理解に先行し得ない」
のであるから、
B*:「現実は、存在に先行し得ない」
ということが導かれる。
つまり、
B**:「現実よりも、存在が先に在る」
のであり、
命題Aの通り、
B***:「存在を理解した時、それが現実になる」
のだ。
このことから、
C:「理解の試みをしない限り、人間は現実に至ることはできない」
であろう。
つまり、
C*:「現実とは、能動的な思考に依り、受動的な思考に依らない」
のである。
ここで、
D:「神の存在を支持することは、現実的ではない」
という主張がある。
しかし、
E:「考えを受け入れることは、それ自体が受動的思考である」
からして、
命題Dのような考え方は、命題C*に反するゆえ、
E2:「神の存在は、そもそも、自己の探究によってしか現実とならない」
のである。
つまり、
命題Dは、
D*:「神の存在を支持することへの反駁は、現実的である」
ことを意味するが、
それは、
D2:「反駁とは、能動的な思考である」
という前提から“現実”として成立するのであって、
命題C*における
C**:「能動的な思考とは、理解の試みである」
ゆえに、
命題D2は偽であり、命題E2を考えれば、
本来的に、
D**:「神の存在の否定は、神の存在を肯定したうえでしか成り立たない」
のである。
つまり、
命題B**で既に明らかだが、
F:「神の存在は、現実に先行する」
のである。
よって、
F*:「神は、存在を理解しようとした時に現実となる」
から、
命題Dのような主張は、意味を為さず、
むしろ、
G:「神の存在を支持することが、現実につながる」
というのが正しい主張である。
よって、
命題E2および命題D**の意味するところは、
G*:「神が現実に存在するか否かという議論をする」
時点で、
G2:「議論とは理解の試みである」
から、
G**:「神が現実に存在することを否定するのは不可能である」
よって、
∴「神は現実に存在する」