1.命題証明集

現実と理解。

A:「現実とは、理解である」

なぜなら、

A2:「何一つとして確定的なことはない」

以上、

A3:「現象に対して意味づけをすることによってしか、現実は存在し得ない」

からである。

ここで、

A3*:「現象への意味づけとは、理解である」

からして、

A*:「理解しようとする能動的な試みが、現実となる」

と言えよう。

さて、

B:「理解は、存在に先行しない」

なぜなら、

命題A3*の通り、

B2:「現象の存在が先にあり、それに対し理解の試みが生ずる」

からである。

しかし、

命題A*が主張されるのならば、

B3:「理解は存在に先行し得ず、現実は理解に先行し得ない」

のであるから、

B*:「現実は、存在に先行し得ない」

ということが導かれる。

つまり、

B**:「現実よりも、存在が先に在る」

のであり、

命題Aの通り、

B***:「存在を理解した時、それが現実になる」

のだ。

このことから、

C:「理解の試みをしない限り、人間は現実に至ることはできない」

であろう。

つまり、

C*:「現実とは、能動的な思考に依り、受動的な思考に依らない」

のである。

ここで、

D:「神の存在を支持することは、現実的ではない」

という主張がある。

しかし、

E:「考えを受け入れることは、それ自体が受動的思考である」

からして、

命題Dのような考え方は、命題C*に反するゆえ、

E2:「神の存在は、そもそも、自己の探究によってしか現実とならない」

のである。

つまり、

命題Dは、

D*:「神の存在を支持することへの反駁は、現実的である」

ことを意味するが、

それは、

D2:「反駁とは、能動的な思考である」

という前提から“現実”として成立するのであって、

命題C*における

C**:「能動的な思考とは、理解の試みである」

ゆえに、

命題D2は偽であり、命題E2を考えれば、

本来的に、

D**:「神の存在の否定は、神の存在を肯定したうえでしか成り立たない」

のである。

つまり、

命題B**で既に明らかだが、

F:「神の存在は、現実に先行する」

のである。

よって、

F*:「神は、存在を理解しようとした時に現実となる」

から、

命題Dのような主張は、意味を為さず、

むしろ、

G:「神の存在を支持することが、現実につながる」

というのが正しい主張である。

よって、

命題E2および命題D**の意味するところは、

G*:「神が現実に存在するか否かという議論をする」

時点で、

G2:「議論とは理解の試みである」

から、

G**:「神が現実に存在することを否定するのは不可能である」

よって、

∴「神は現実に存在する」

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