3.威張るブログ

病と恵み。(参考→IIコリ12:9-10)

1.序論

a)パウロの神秘体験

→謙遜な使徒は、自らが任じられた使命の正当性を示すために、偽物達に対して敢えて誇った。かつてパウロは、肉体に“とげ(病)”を与えられ、神に回復を求めたが、返ってきたのは癒しの“言葉”だった。

b)弱さのうちに

→主イエスは「弱さの内にこそ神の力があらわれる」と仰せられた。そのゆえに使徒パウロは、自分の弱さを誇った。人が弱いからこそ、神の強き恵みが際立つのである。その意味で「弱い者こそ強い」のだ。

2.本論

a)個人的な体験

→筆者は、心身に大病と大怪我を負っていた。幾度となく「どうしてこんなことが」と思ったものだった。しかし、未信徒であった当時も、神をのろうことは一度もなかった。時が経って、自分に起こったことは信仰への布石だったと解った。そのことを詳述すると、十万字近くになる。

b)限られた視野

→人間はどれだけ俯瞰的にものをみようとしても、自らの視点に立っている以上は限界がある。まして、僅かな知恵を以って神のご計画の全容がみえるはずはない。しかし、人間の知が及ばない事実を知る方法はある。その道が聖書に記されているのだ。

c)不条理

→被造世界が壊れていることを強調されたところで、あまりに不可解なことも、時としてあろう。何しろ筆者自身がそうであった。ただ「不条理があるところには“条理”があり、それは自分が定めている」ことを忘れてはいないだろうか。そして、自分が条理だと思っているものは、神の恵みであるということも。

3.結論

a)恵みの全貌

→自分が“条理”だと思っているものは、恩寵の一部である。しかし、未信徒の状態ではそのような理解に至れない。そのゆえに、別の恵み-あるいはもっと大きな祝福-のために備えられた試練を前にして神を否定し、拒絶してしまう。本当は「自分にとって不条理に思えることも、神の御手においては条理の采配なのだ」ということが解り「事前には希望を、事後には感謝を」御父に対して持てるのが信仰によって得られる宝なのであるが。

b)御言葉を信頼する

→しかし、「神に不平を言う未信徒は悪だ」というのは、あまりに手厳しい。なぜなら、「未信徒だけがこれから信徒になれる可能性を持っている」のだから。なればこそ、恵みに与る者として彼らに伝えなくてはならない。「試練にあったとき、神を拒絶するのでなく、聖書を開いてほしい」と。『ヨブ記』や『使徒の働き』にも明らかだが、試練の中で神を求めた義人の姿が描かれている。神の御言葉である聖書が、なぜそのようなメッセージを発しているのか。それは「苦難に思えることは、祝福への道である」からに他ならない。忘れてはいけない。聖書全体は、神が完璧なお方だということを証している。困ったとき、手元に聖書がある。それは御言葉であり、発話者である神の臨在に他ならない。

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