A:「懐疑とは、その存在の一部を是認することである」
なぜなら、
A2:「疑うことは、対象となる概念を前提としなければならない」
から、
A3:「少なくとも、その概念そのものを了承する必要がある」
ゆえである。
ここで、
B:「ある概念への懐疑は、その行為が何に向けられているかを吟味する必要がある」
かもしれない。
というのも、
C1:「ある概念が実在するか否か」
という議論と、
C2:「ある概念が正しいか誤りか」
の判断は、
言語的な仕組みにおいては、別の事象を扱っているからである。
ここには、
例C1は、
C1*:「ある概念について、その真偽以前の議論を展開する」
一方で、
例C2は、
C2*:「ある概念について、その存在を承認したうえで議論を展開する」
という違いがあるだろう。
しかし、
D:「実在するか否かの議論と、存在の承認をしたうえでの真偽の議論は異なる」
のであるか
つまり、この議論は、
D*:「ある概念が誤りだった場合、その概念は実在しない」
のではないか
ということに向かう。
逆に、
D**:「ある概念が正しかった場合、その概念は実在する」
のではないか
とも言える。
つまり、
E1:「紫のリンゴは実在しない」
という議論と、
E2:「紫のリンゴはXだろうか」
という判断は、
E3:「例E2の項Xについての“結果”によって、例E1と同値になる」
(E3※:E2において、X=リンゴ だとすれば、この命題の真偽はE1に向かう)
のである。
ここで、
命題E3について検討したとき、
F:「ある概念についての真偽は、その“結果”が実在についての議論と同値になる」
と言えよう。
つまり、
G2:「概念Yは、正しいか誤りか」
という議論の結果は、
G1:「概念Yは、実在するか否か」
という議論に向かうのである。
さて、
H:「“絶対的に正しいもの”について、その正誤を問うことはできない」
なぜなら、
H*:「絶対的に正しいものは、Zにおいて誤りである」
という命題は、“成立しない”からである。
ここに、命題Fを適応させると、
I:「“絶対的に正しいもの”についての正誤が、実在するか否かという議論と同値である」
から、
I*:「絶対的に正しいものに、誤りを見つけることはできない」
という結果は、
I2:「絶対的に正しいものは、実在するか否か」
という議論の結果と同値であるはずで、
命題Hにより、命題I*は覆らないから、
I2*:「絶対的に正しいものは実在する」
ということになる。
これらの導出は、
J:「概念の実在についての議論の結果は、その概念の正誤からも導くことができる」
ことを明らかにすることによって、
J*:「実在の有無について、概念の正誤から証明する」
という試みである。
さて、
命題Hについて、
K:「神は、“絶対的に正しいもの”として定義される」
よって、
K*:「神について、誤りを認めることはできない」
このことは、
K**:「神が実在することと同値である」
よって、
∴「神は実在する」