1.序論
a)主体的な哲学者
→誰もが何かしらの形で哲学をしている。それは「どうして?」という問いなくして人間は行動を起こせないからである。であるからして「思想は人の数だけある」とも言えるだろう。しかし、絶対の真理に至る者は少数である。なぜなら「どうして?」との問いが自分に向かっている限り、その答えは“主体的な真理”であって、そういった意味で自己満足の域を出ないからである。
b)他者の尊重
→思想が人の数だけあるのは間違いないが、それを「尊重しよう」と言いながら沈黙する者は、果たして他者を重んじているのか。本当に相手を理解しようとしたら、自己の思想をぶつけるしかないのではないか。相手に論議の余地を与えないような姿勢は無論、エゴであるけれども、自分の思想を声高に主張することなしには他者の能動的返答はあり得ないように思える。
c)決定的な誤謬
→こと“お人好し”な日本人は自由を履き違えてしまいがちである。「他者を尊重する」との言葉を発しながら、そのじつ「君の主張には反応しないから、私のすることに口出ししないでおくれ」と相手を威嚇する。だから、そこに自己吟味はなく、「どうして?」という問いは己を無理に納得させるものにしかならない。人間に備えられた意思の行使は、自身が理性的存在であると認めるためではなかったか。自己の意思決定は尊重されるべきであるが、それは事前的な場合に限る。“受動的な意思決定”はあり得ないからである。
2.本論
d)人間の意思
→生物学や医学というのは、人間を生き物として扱う。そうしなくては成立しないことであるから、それは仕方がない。問題なのは、「どのようにして?」には答えられて「どうして?」には応えられない科学を闇雲に受容して「人間が動物的なもの」だと錯誤することである。はっきり申し上げて、この前提に立つと過つ。もし人間が“単なる生命”だとしたら、そこに比較の入る余地はない。自分が動物と明らかに異なるのが事実だからこそ「人間は動物の一種なの(かもしれないの)だ」と錯誤する余地が生ずるのである。人間は“人間”なのであって、もしそうでなければ言語は存在しない。言明ができることは当然、言語に基づいており、言葉には必ず発話者が先行する。したがって“動物”という概念規定には人間が先立つのであり、そこに人間が属することはあり得ないのだ。
e)概念と種差
→言語による概念規定を突き詰めれば、何一つとして同じものは存在しない。しかし、我々は往々にしてカテゴライズしようとするものである。それは「何かに属する」ことで安心を覚えようとする動物的営為(群れの心理)に他ならず、人間本来のあり方ではない。だが、種差をなくすことは自由主義に向かうべきではない。そうではなくて、個物の独自性を認めたときに現れる普遍性に着目し重視すべきである(現代の“差別廃絶”は、それ自体は肯定されるものであっても、普遍を無視した尊重は偏重であり、結果的に「その人の何たるか」を消失させ、個を疎かにすることになりかねない)。
f)唯一性
→通常、言語によって規定される諸物は、包括的な概念と個別的な概念に発する二つ以上を持つ(例えば、人間と太郎,机・勉強机・太郎の勉強机)。しかし、[神]だけは違うのである。すなわち「唯一なる神」は「聖書の神」とも言えるが、そのことが何かに属すことを意味することは全くない。しかも、その存在を認める者だけが(「唯一なる神」と)呼ばわることができるゆえに不可侵である。「人が神をつくった」という浅はかな発話者は「“唯一なる神”の存在が概念の全てを規定している」事実に気づかないから、自己(いのち)を喪失するのである。つまり「多の概念は一があって成立するが、一が概念として成立するのは、“絶対的な一”が存在し(ゆえに一が一であることを許され)、そこから多が発出するから」である。かくて、何かを尊重するにはまず、その根拠を知らねばならない。
3.結論
g)聖書は真理である
→なぜ聖書が真理であるかと言えば「言葉によって“唯一なる神”に言明しているから」である。言葉の性質は本来、分割にある。ここで見落としてはならないのが、言語は認識(知覚)と結びついているから、その分割は可逆的である事実(人→太郎,「太郎」→人or犬?←認識)だ。だから「言葉によって“認識できないもの”を言語化すること」は本来あり得ないゆえに“言語の創造者”しか、この構造を成立させることはできないのである。そして、言明が真であれば発話者も真である。その根拠は無誤謬性にあるわけだから(偽典が認められるわけはなく)正典66巻の一貫性がその真理なるところを保証するのである。