無神論を語る人々には「世の不条理より、被造物の素晴らしさに目を向けてほしい」というのが私の願いです。多神教文化には「拠り所としているものが“哲学書”なのか本物の聖典なのかを吟味してほしい」と私は思います。キリスト教以外の唯一神教の信者には「神が証人を立ててきた歴史と、願っておられる信仰に目を向けてほしい」と言いたいです。
さて、神はさまざまな現象を通してご自身をあらわされます。この世界が存在すること自体もそうですが、もっと明らかに分かるのは“導き”においてです。特に「苦難を通して神がはたらかれる」という事実を知らない人があまりにも多いです。しかし、人間は近視眼的にしか物事を見ることができませんから、本来は、神に縋ることによって忍耐し、時が経ってようやく分かることが多いものなのです。しかし、祈りを勧めても、実行する人は僅か。実行する少数者も、続かない人がほとんど。悲しいことです。「忍耐は希望につながる」と粘り強く祈ってほしいです。これは、私の実体験に基づく知恵なのです。たとえば、私個人の例では「大腿骨を折ることが救いにつながっていた」なんて、未信徒時代に分かるわけないのです。でも、ここでは語り尽くせぬ私のような悩みと苦しみばかりのステップなんて踏襲しなくていいんです。スキップしてしまえばいいんです。近道ができることは祝福です。「君だけが苦しいわけじゃない。痛みは人それぞれなんだよ」、ご指摘はもっともです。でも、その苦しみが大きいならば尚更、「処方されるべき薬がある」と言いたいのです。
つまるところ、「目に見えないものは信じられない」ということなのでしょう。でも、我々は明日を信じている。苦しみの最中にあって、未来を信じているはずです。それらは見えるものでしょうか。
神は、愛が最も強くあらわれる方法をとっておられます。罪人は、無意識のうちに、認識できるものを支配しようとします。支配とはすなわち“貪り”であり、愛と対をなす罪の本質です。ですから「認識できないものを信じることは、愛を育てること」であり、それがキリスト者としての歩み、ひいては全ての人が進むべき道なのです。貪りをころすには、愛を知るしかありません。その最大のものは、父なる神が示しておられます。“形骸化したキリスト教”の人間的な歴史は愛なきものです。しかし、聖書に書かれた救済史を“遠視的に”読んでください。そこには、神の愛が溢れています。
「神がいるなら、こんなに辛い世界なはずがない」。そう思うなら、どうして神が用意した本当の世界を拒むのでしょうか。どこぞの異端やカルトみたいなことは言いません。死後に云々~…ではないのです。神の国は、“ここ”にあります。救いは生ける実感なのです。そして、その救いは、“先立つ苦難が大きいほど素晴らしい”ものです。「苦しみがなければ、救いはない」わけですから。
色々と喋ることにも意味はありますが、聖書を読んでみるのが最短の道です(ただし、そこいらで配っている無料のものではなく、しっかり調べて買ってください。そこは、気をつけてくださいね)。抵抗があるのも分かります(それは、反キリストなる“偽物”のせいですから、葛藤する自分を責めないでください)。でも、聖書を読むことへの躊躇いは、あまりにもったいない食わず嫌いですから、焦らず心のまま、手にとってみてくださいね。
最後までありがとうございました。