2.聖句の悦び

神の御思い。(ゼカ7:5‐6)

預言者ゼカリヤはハガイと同時代の人物で、彼と同じくイスラエル民族の激励に努めました。

この著者による本書には、幻を伴うメシア的な預言や、断食を通した信仰姿勢の提示などがあります。

今回は、その断食について語られる場面で私が印象に残った思想を取り上げます。

当該の聖句においては、

<あなたがたは、自分たちのために飲み食いしていただけではないか>

という趣旨のことが書かれています。

つまり、

イスラエルの民は断食を形式的に行っていただけで、そこに“信仰”の思いは込められていなかった

という指摘です。

この箇所を見た未信徒から、

「神は自分中心じゃないか」

というような感想が返ってきそうです。

無神論者の主張はどこまでも、

“神の超越性を認められない”ところにあるからです。

一つの例を挙げましょう。

[もし、あなたがコンビニの商品を買わずして万引きしたら、どうなりますか]

・法的な観点

(1)見つかった場合、法的な罰を受ける

(2)見つからなかった場合、罪には問われない

・感情的観点

(a)罪の意識がある場合、後ろめたさを覚える

(b)罪の意識がない場合、窃盗に依存する

細かい点は割愛し大枠だけ切り取れば、このように分析できるでしょう。

では、

(1),(2)において

罰を受ける理由は何でしょうか。

社会秩序が乱れるから/被害者と加害者のどちらともに何らかの傷を受けるから

中心点は、大方、ここにあると思います。

その本質は、どこまでも“人間の保護”を目的としています。

では、法を執行する人は誰でしょう。

逮捕するのも、法を適応させるのも、人間です。

(a),(b)において

罪の意識が生ずるか否かは、どこにかかっているのでしょうか。

窃盗が倫理的な悪だと知っているから/法に逸脱する行為であるから

他にも考えられるでしょうが、

コアは、“ルール”にあるでしょう。

ここで、法を定めたのは誰でしょう。

刑法を定めたのは人間です。

さて、

人間が定めたルールにおいては、

大多数の人々が自身を思慮ある者として、

「破ったら罰を受けて然るべき」

「罪の意識を感じるべきである」

と思うでしょう。

にも関わらず、

神が定めたルールにおいて、

実に日本人の九割強(すなわち未信徒の人口)が、

「破って罰を受けるのはおかしい」

「どこがいけないかわからない」

と思っているわけです。

どういう構造か。それは、

“神を人間と同列に扱っている”

ことに尽きます。

神が人格を持っておられるというのは、聖書に表現された明らかな事実ですが、

こと日本人は、“内面の判断基準をそれがもたらす功利に寄せる”傾向があるために、

「〇〇の結果、△△~」

という定式において、

理由(〇〇)より、結果(△△)に関心があるのです。

(※あくまでも、個人的見解に基づく、一般原則の考察です)

「逆じゃないの?むしろ、感情的な“動機”を重んじるのが日本人では?」

という声が聞こえてきそうです。

もし、本当にそうであれば、

神に対する積極的な理解がこれほどまでにないのはおかしい

と思います。

確かに、動機を重視するでしょう。

しかし、

結果に基づいて動機(原因)を判断する

というのが、あくまでも根底にあると思うのです。

原因→結果 という西洋的な考え方と、結果→原因 という東洋的な感性

これらは、哲学史の歩みに証拠として現れているのです。

いずれも、

原因と結果のどちらも軽んじていないのですが、“順路”が違うのです。

そうすると、

“結果よりも動機を大事にしているようで、

動機を問うきっかけは結果から始まっている”

という日本人の精神構造が見えてきます。

だからこそ、

多くの日本人は、

神がこの上なく人格的な判断で怒ったとき、その理由を考えようと思えない

わけです。

だから、

<あなたがたは、わたしのために断食をしていない>

と神が仰せられても、

結果(発言)から入る日本人は、

イスラエルが異邦人にまで及ぶ救済のために選ばれた民族で

信仰の表現として断食といったルールが敢えて課され

それらがキリストへの信仰によって解放されることまで見据えられたゆえ

選民なればこそイスラエルには厳しい父であられた

という、

原因(理由)にまで、及ばない。

(※さらに言えば、聖書の一言一句、全てが神の御言葉であり理由)

だから、

神に対して恐れ多くも

発言だけで、“人間的”という印象を受け、

放埒なギリシャ神話の“石ころ”であるかのようにしか捉えられないことから、

「全き善であり、法の統治者である神に従おう」

などとは思えないわけです。

コンビニの物を法律に反して盗んだら罪の感覚に陥ることは想像できるのに、

神の物(全被造物)を律法(黄金律)に反して盗んだ(勝手に用いた)としても、

罪(これこそは、真なる罪)

とは思わない。

私は、悲しいのです。

道徳的にこんなに優れた愛ある民族が、他のどこにいましょうか。

“義”は、神において達成されます。

日本人ほどに、その衣が似合う民はいない。

今日はここまでです。ありがとうございました。

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