十二巻の小預言書のうち、七番目に位置するのが『ナホム書』です。扱われているテーマは、ニネベの陥落。
ニネベ(ニネヴェ)とは、北王国イスラエルを捕囚した強大国アッシリアの都です。
その、滅亡するなどとは到底思えない都市が、まさに傲りによって神に裁かれることを預言したのが、ナホムという人物です。
その冒頭から、神の裁きの凄まじさが克明に語られる一方、
1章7節には、
<神に依り頼むものは守られる>
という趣旨のことが書かれています(荘厳なメッセージの中で信仰への希望が強調される描写が素晴らしいので、ぜひご自身で引いてみてください)。
先日、東京23区でも震度5強の揺れを記録する地震がありました。
私は、ちょうど寝ついた頃に、慌てて起きました。
東日本大震災から十年以来の、大きな揺れでした。
起きるときこそ動揺しましたが、そこには、十年前とは全く違う私がいました。
あの時は、「もうだめだ」と絶望して“叫ぶ”しかなかった自分。
このほどは、「神様の御心のままに」と希望を述べて“祈る”ことにすべてを委ねる自分。
その違いは、まさしく当該箇所で述べられているところにありました。
それは、
『詩篇』でも繰り返されますが、
<神は砦である>
という信仰に依ります。
我が家は、祖父が隠居用に建てた、築30年近い家屋です。
丈夫に建てられたとはいえ、さすがに建築当初の強度とはいかないでしょう。
キリスト者になるまでは、
「地震に備えて建て直したほうがいいのかな」
と、ひっきりなしに考えていました。
しかし、今は、全くと言っていいほど焦っていません。
「“機”が来たらば、その時を逃さねばよい」
と、どっしり構えています。
たとえ要塞に住んでいようが、壊れるときは壊れますし、
住まいはよくとも、自分の身がいつまでも健やかだという保証もありません。
災害や病は、人を選びません。
多くの人は、
その事実から、
「クリスチャンが困難に遭うのは、神に力がないからじゃないか?」
と言います。
この発言、
的外れではありますが、よく分かる心情です。
そのことを踏まえて私は、
「災厄は肉体を壊すことはできるが、魂(信仰)を滅ぼすことはできない」
と答えます。
キリスト者には(“死後の”という茫漠なものではなく、)既得の救いがあります。
その“救い”とは、
「死んでも天国が待っている」という単純なものではありません。
誰でも、死は怖いですし、
今の“生”を大切に出来ずして、永遠が何になりましょう。
信徒が持っている(あるいは、持つべきな)のは、
「この出来事(極致として死)は、神が与えた“機”だ」と受け入れる信仰です。
先日の地震が、前震である可能性は極めて高いと思います。
仮に本震がきたら、そこに“善人”も“悪人”もありません。
しかし、“義人”と“罪人”との間の、大きな違いが明らかになります。
それは、
「あなた(神)に委ねます」
という告白ができるか否かです。
つまるところ、
キリスト者は、“裁きを被る”のではなく、“裁きに委ねる”。
この在り方において異なるのです。
もっとも、
“その時”、私がどこまでの信仰を“示せるか”は分かりません。
ただ、
はっきりと言えるのは、
「私から信仰を“奪える”ものは、何一つない」
ということです。
なぜならば、
キリスト者は、十字架の信仰を持った時点で、
神の庇護たる砦において、そこに寄り縋る魂を守っていただいているからです。
とはいえ、入念な備えもまた導きです。
皆さま、ここしばらくは特にご用心ください。
私も気をつけます。
今日はここまでです。ありがとうございました。