2.聖句の悦び

神の面前で。(参考→ホセ7:2)

『ダニエル書』の次からは、十二の巻からなる“小預言書”が始まります。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル の名を冠した“大預言書”と呼ばれるものとの違いは、「内容の重要度を大小で区別しているのではなく、記述の長さにある」と考えた方がよいでしょう。

その根拠は、「聖書は旧約39巻、新約27巻の計66巻が一つになって全体のメッセージを成している」ところにあります。近年、失われた死海文書の発見などもありますが、これから正典(聖書に類するものから、教会が正統と定めた書。すなわち66巻)に加わるものは現れないでしょう。

現存するものが聖書の形を成していて、一貫したメッセージを内包しているというのは、神の御心ゆえです。

それは、教会史で洗練されてきた正統な教えには神の導きが働いているということに他なりません。

“聖書による”神の救済計画は不変で、今の時代は終末に向かう中、反キリスト(神に敵対する勢力)的な教えに対して、いかに誤りのない福音伝道をするかという段階にあります。

さて、この書では、ホセアが妻ゴメルの不貞(律法の観点から結婚“後”、姦淫に耽ったという説が有力)をゆるし買い戻すさまを、父なる神と背信のイスラエルの関係に重ねながら、偶像ではない真なる神の愛に応答することが勧告されます。

ここでちょっと私的な話を。

偏向報道が酷いのでテレビを観ることの少ない私ですが、先日、つける機会があって少し眺めていると、高速道路で規定速度を50キロ以上オーバーしながら危険運転をして楽しんでいるドライバー“もどき”達のニュースがやっていました。あまりにもしょうもなくて、報道を聞くこちらの人徳まで損ねられるようで非常に不快でした。

「どう間違っても、こんなにカッコ悪い生き方をする人間には落ちぶれたくないね」。祖母とそのように話してテレビを消しました。

善悪の道徳的な判断が欠如した彼ら。「道徳は自分が決めるんだ。だから俺が満足ならそれでいい」といった態度で、“勘違い実存主義”を無意識に掲げているのか知りませんが、まさに“餓鬼”。その有り様は、生きながらにして地獄にいるような悲惨さです。

でも、「“他人の振り見て我が振り直せ”だ」と思います。

というのも、

今回の該当箇所は、“神の前では悪は隠されない”という趣旨のメッセージ。

“ドライバーもどき”に対して、「エゴがすぎる」と思っていましたが、それが“私の善意思”に基づいていたら、判断基準が自分にあるという点では、本質的に彼らと変わらないかもしれないからです。

これは恐ろしいことです。

しかし、信徒には律法があります。「“最高善である神” が定めた明確なルール」があるのです。

十戒に有名ですが、

メシアたるイエスは、

「思いの限り神を愛しなさい」。「自分のして欲しいことは他者にもそうしなさい」。

という“黄金律”として律法の本質を示されました。

このことに基準を置けば、神の定めたルールという、この上なき根拠のある生き方ができるのではないでしょうか。

生き方の中心に神がいるというのは、キリスト者の一貫した“芯”です。

ただ、当該の聖句にも明らかなように、神の教えに善悪の判断を委ねている以上、罪人である人間が常に完全な善を行うのは不可能です。

ですから、真の善人になろうとしても、“善と悪”という“二項対立の相対的な世”にいる限り、それは不可能なのです。

では、どうしたらいいのか。その答えは、“義と不義”という“神を絶対とする御国”に進むことです。

我々は、“判断が千差万別である人間基準の善人”ではなく、“完全な判断を持つ神の前での義人”になるべきだと私は思います。

前者は曖昧ですが、後者は明確です。

神の前に姿勢をただすというのは、生き方に芯を持つことです。

今も、天の父はすべてをみておられます。神が私をご覧になったら、善人“もどき”に映ることと思います。

しかし、キリストの福音を信じ“義”と認められている今、私には“罪人”としての強烈な自覚が生じているのです。

本当に立ち向かうべきは、他者でなく、自分の内にある“肉の性質”です。

「こんな悪人どうしようもないな」でも「僕、罪人なんだよな…」。

神の目から見たら、人間は“どうしようもない”でしょう。しかし、“愛おしい子”として大切にされていることも事実です。

少しでも、御目にかなう民であれるように。

今日はここまでです。ありがとうございました。

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