2.聖句の悦び

私は救われていたのか。(参考→エペ4:4‐6,ロマ8:30)

私は、長らく三位一体の教理に反発していました。

そのわけは、(真理を追う者としての)“哲学者”的な立場から、福音書を徹底的に読んでいた時、イエスは終始、「天の父なる神を~」という趣旨の発言をしていたからです。

特に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ…」と、「父なる神に全てをお委ねします…」と祈ってイエスが死なれたことは、大学一年次に哲学史の授業で扱ったこともあり、とりわけ記憶に残っていました。

そのことから、「父なる神は、イエスとは別の存在だ」と長らく思っており、そのことが私を「“聖書全巻”は全き神の言葉である」という信仰から遠ざけました。

このことは、「“福音主義”の立場を取れなかった」ことにとどまらず、“聖書そのものを読むこと”から私を引き離し、読んでもいないパウロ書簡も受け付けず、“福音の三要素”を信じることもできませんでした。

かつて、「“摂理(キリスト教福音宣教会)”という破壊的なカルトに洗脳される」出来事から聖書に触れるきっかけを得た私は、当時の記憶が混濁しており、「聖書は一通り読んだ」と長らく誤解していました。それが、自身の誤謬に気づけなかった一因です。

大学を卒業してから一年の間に、真理探究を集中して行っていた私は、在学中から“唯一神信仰者”としての立場を持っていたこともあり、次第に聖書に向かってゆくこととなります。

「僕、本当に聖書を全部読んだのか?」。その問いをきっかけに通読プランが付いている“注解つき聖書”を買って、三ヶ月ほどかけて“初めて”一周しました。

そうしてようやく「聖書は一貫性を持っている」という“基本”が解ったのです。

「旧約からの“メシア預言”が、新約において成就した。福音書のイエスがキリスト(救世主)であるのは間違いないことだ」ということを理解した私が次に考えたのは、“イエスの神性”について。すなわち、「“父なる神”が“独り子”イエスとどのような関係にあるか」という“三位一体論”です。

以前書きました通り、「“聖霊”は、“神の力”である」という異端的な理解をしていた私は、“父なる神”から“聖霊(たる力)”によって身籠ったマリアから生まれた“イエス”は、「神の力に満たされた人間である」と解しました。

「イエスは、神の性質と人間の体を持つから、人類を贖い得る理屈も通るし、神の唯一性もそのままだ」と。

この誤謬を前提に、

「イエスは私たちの罪のために死なれ、墓に葬られ、三日目に甦られた」

という“福音の三要素”を信じたのです。

パウロ書簡(すなわち、聖書の教え)によれば、福音の三要素を信じた者は価なしに神から義とされ救われます。

しかし、その信仰があっても、

Q.[“聖霊論”ひいては“神概念”を間違えていた私は、本当に救われていたのでしょうか?]

「“福音の三要素”を信じた時、信徒には“聖霊の内住”が与えられる」

このことが、救いを考える“鍵”です。

確かに、聖書によれば、

「“福音の三要素”を信じれば死後に救われ、その救いを失うことはない」

(ギリシャ語原典の時制は、“一度限りの完了形”で書かれているのがその根拠)

ことが保証されています。

ただ、私の経験と照らし合わせると、

いわば、この“救いの定式”がどうして成り立つかといえば、

「“福音の三要素”を信じたら、“内住の聖霊”が“過つ信徒”を常に導きながら“御国に相応しく成長させる”ことが“未来において確定している”から」

なのである、と。

よく、「信徒になっても、罪を犯し続けたら救いが取り消される」と言う人がいます。

聖書(の原典)に基づけば、それはあり得ませんが、

その根拠は、

1.イエスの贖いは完璧なものであるから。

2.聖化の完成が保証されているから。

を挙げることができるでしょう。

個人的に、二番目が大きな発見でした。

“聖化”とは、「福音を信じた者の内に住まう“聖霊なる神”が信徒をキリストに似た者へと導く“現在進行形の救い”」です。

なぜ、

「福音を信じ、神に義とされ(“義認”=過去形の救い)た者に

死後の救い(“栄化”=未来形の救い)が保証されているのか」。

それはまさしく、

地上生涯において信徒が過ちながらも、“聖霊なる神”によって、やがて“栄化”という完成に至る“確定的な計画”に基づいているのだ

と。

ゆえに、

「“福音の三要素”を一度信じたら救われ、失われることはない」

ことが確実であるわけは、

「聖霊の導きによって“(過ちも通して)聖化が進むこと”が保証されているから」

であると。

A.[その点から、

私について言えば、

“福音の三要素”を信じた時に救われていた

というより、

“福音の三要素”を信じた時に救いが「確定した」

のであり、

“聖霊”を、内住によって導く“唯一なる神の第三位格”と認めた時に救いが「始まった」

ということなのでしょう。]

「父なる神が計画し、子なる神が遂行し、聖霊なる神が完成させる」。

“福音の三要素”に“付け足し”をしてはいけません。

ただ、

「救いがどうして進むのか」というところに、“三位一体”の理解が必要なのです。

つまり、

∴「“福音の三要素”を信じることは、“三位一体の神”を解して、“救いの未来完了が確定すること”である」。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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