A:「空間とは、“自我が認識可能な対象”の“集合”である」
というのも、
B:「我々が存在している“場”については、思考より認識が優位性を持つ」
からである。
それというのも、たとえば、
B2:「我々が、“森”という場にいるとき、働くのは“認識(知覚)”である」
ことが明らかで、
C1:「地点Xにおいて、Yという思考をする」
ことは可能であり、
C2:「地点Xにおいて、Xという場について考える」
こともでき得るが、
C2*:「地点Xにおいて、Xという場を“知覚する”」
という命題C2*が、命題C2に対し優位性を持っていることが自明だからである。
このように考えると、
B2*:「“地点Xにいる”ことと“地点Xを認識する”ことは同値である」
その意味において、
B2**:「地点Xについて考えることは、地点Xに“在るという認識”に先行し得ない」
ということは、命題Bは、
B*:「我々は、“既に存在している場”についてしか思考することは不可能である」
ことになる。
ここで、命題Aの意味することは、命題B*に対して、
A*:「空間を思考によって把持するために、認識を最小単位に分ける」
という考え方である。
つまり、命題Bを前提にしたとき、
A**:「認識を最小にすれば、その後を追う思考との“差異を最小に”できる」
という方法である。
このとき、命題Aにおいて、
A2:「空間とは、“最小の認識対象”が集合したものである」
と再定義したとすれば、命題A**の原理より、
命題A2は、
A2*:「思考し得る空間定義で最も確実なものは、“認識の最小単位の集合”である」
と言い換えることができる。
この観点で、空間について考えると、
D:「物体の最小単位は素粒子であるから、空間はその集合体である」
という主張は可能である。
しかし、“思考による空間の把持”においては、
命題A2*に対して、
D2:「知覚可能な対象の物体“各々”が存在する“有り様”が空間である」
という定義が正確である。
さて、命題B*の導出で明らかなことは、
B**:「我々が思考する空間は、すべて“既在”のものである」
ことであり、命題D2を考え併せると、
E:「“個々の存在が如何様に存在しているか”に、思考可能な空間が当てはまる」
ということになる。
このことから、いわゆる、
E2:「天国や地獄の概念は、本質的に、“存在の在り方”である」
ということができる。
ここでも、義しい信仰の必要が勧められるわけは、
F:「存在の在り方で最も理想的な状態は、“一者との関係が回復している”状態である」
ゆえである。
よって、
∴「“最上の空間に在る”とは、“最善の在り方でいる”ことである」