2.聖句の悦び

節分をどう考えるか。(参考→ガラ5:9,Iペテ2:12)

このエッセイを書いている今日は、信徒になってから二回目の節分です。「キリスト者になってから、一年と二ヶ月ほどしか経っていないのか」と自分でも驚くほど、恵みによる日々の飛躍的な成長を喜んでいます。

朝、父から「恵方巻きをどうしようか」と言われた時、非常に困りました。二人ともビジネス的な起源だと分かってはいましたが、私はこの問いをきっかけとして「信徒として節分をどう考えるか」ということに突き当たったのです。

去年の振る舞いは、信徒になりたて、しかも聖書理解が福音派とはほど遠かった状態でのことなので「参考にならないな」と改めて、このテーマについて真剣に向き合ってみることにしました。

節分は、その名の通り季節の分かれ目としての日でしょう。“節分を祝う”ということでしたら、新年と性質は変わらないはずですし、そこに間違いはないと思われます。問題は、そこに豆まきや恵方巻きが付随していることです。

「季節の変わり目を祝おう」というのは分かります。でも、「だから、厄払いをしよう」となるのは、なぜでしょう。

これまで、この「何かを祝うこととして厄払いしよう」という発想について深く考えることはありませんでした。「豆を撒いたら、何が邪気を払ってくれるだろう」と私が尋ねたら、誰か答えてくれる人はいるのでしょうか。実に異教的な風習です。

キリスト者としては「家から邪気を払おうと迷信に浸ることが、かえって災いを呼ぶことになる」と思います。父なる神への信仰から、行為者を遠ざけるからです。信徒は知っています。「何が起ころうとも、神の御心が行われるのだ」と。信徒の“からだ(人格を含む存在の全体)”は「聖霊の宮になる」という祝福を受けます。ですから、“家から邪気を払う”という慣習に従って真の信仰からいっそう遠ざかれば、その人のからだという“本当の家”に異教を招くことになるのです。

恵方巻きはどうでしょう。「季節の変わり目を祝うために巻き物を食べる」だけでいいのに「縁起のいい方角を向いて食べる」という付け足しが残念です。キリスト教国家を謳っている国が、まるで愛を実践していないのに、愛を実践する日本人の多くが、福音を受け入れられない。ここに存するであろう宗教的な考察をいずれしてみたいです。

このように、日中、考えていると、「躊躇いが生ずるのが、そもそもおかしくないか」と思い至りました。もしかしてそれは、「聖霊の御声じゃないか」と。思い出したことには、回心したばかりの私は、昨年、豆まきをした後、霊的な痛みを感じたのです。それはつまり、“間違い”を神が指摘して下さったということです(ゆえに、忘れてはいけませんでした。去年のことを思い出せてよかったです)。そして、下書きの時点でおおかた考えはまとまっていましたが、こうして実際に文章にすると、筆が進むにつれ“節分という日”は悪くないが、“節分というイベント”はよろしくない問題だと感じます。こういった異教的な文化には集団心理がはたらくので、油断したところから霊的な妥協が入り込みそうになりますが「わずかなパン種が全体を醗酵させる」ことを覚えておきたいです。小さな罪は、信仰全体に影響していきます。

福音の三要素を信じた人は、聖霊のバプテスマを受けています。「その時点で信徒です」。人の手による洗礼は二次的なもので、いわば信徒になった記念です。“福音の三要素を信じた瞬間に、その人は信徒なのです”…と、このように異教文化に物申し霊的改革を訴える信徒が、バアル礼拝に参加していいはずなど絶対にありません。気持ち新たに、自身のポルノ依存とも戦います。天の父上が望んでおられるように、キリストに贖われ聖霊の宮となったからだを、聖書の教えに基づいて守らなくてはなりません。

最後までありがとうございました。

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