2.聖句の悦び

終末の強調。(参考→ルカ12:4-7)

先日、ネットで「よく見かけるあの看板~」という感じのタイトルがついた記事を見かけました。内容は詳しく読んでいないのですが、塗料についての話がしたかったようです。日頃のメッセージでも強調していることですが、“中身を確かめもしないで否定から入る食わず嫌い的な姿勢”は基本的に止めるべきです。実行が伴わなければ言葉の力は弱くなってしまいますが、それでも私が敢えて中身を読まなかったのは、「その看板が“危険”だったから」です。

“その看板”とは、「裁きの時は近づいている~ -聖書」という趣旨のもの。私がその看板自体を過去に実際見たかどうかは分かりませんが、この手のメッセージ、すなわち“終末のみを強調して不安を煽ること”に嫌悪感を禁じ得ません。都心に行くと時々走っている禍々しい音で“聖書の教えを騙る”車、私は大嫌いです(のちに知ったことですが、まさか福音派の団体とは…)。それ以上に何より、冷や汗を伴う危機感に苛まれます。

終末(世界の終わり)だけをことさらに叫んで不安を煽り、「地獄に落ちるから信ぜよ」というのが聖書のメッセージであるかのような誤解を与えて、それが何になるのでしょうか。そういう連中は、基本的に“異端”です。カルトの特徴の一つは、“終末を執拗に強調すること”です。少なくとも、「“裁きに関する聖句”を部分的に切り取って、その出典が聖書であると言ってまわる集団が正統信仰に基づく可能性は、まず、ない」と言ってよいでしょう。こういう偽物がいるから、キリスト教が単なる宗教と揶揄され、聖書に向き合おうとする人の前に壁ができてしまうのです。

「地獄におちたくないから神を信じる」という動機で正統なキリスト教信仰に向かう人は、まず、いません。なぜなら、「聖書の強調点は、裁きではなく救いにある」からです。今回の該当箇所を引いてみてください。確かに、地獄という言葉は出てきます。しかし、前後の文脈を確認すると、「人の(永遠の)いのちに対する権限を持つ“神を”恐れよ」という趣旨の記述であることは明白ですし、「その神は、あなたがたを愛している」から信仰に至りなさい、という“積極的(ポジティブ)な”勧めであることは、はっきり分かります。

全体を読めばわかることですが、聖書は「地獄におちないための指南書」でなければ「天国に行くべき勧告書」でもありません。後者でもないことに驚いた方は多いのではないでしょうか。では、どのようなものなのか。

A.「聖書は“救済の書”です」

「いや、結局、地獄におちず天国に行こうってことでしょ」と思った人は間違っています。未信徒の典型的な誤解です(というのも、私がそうでした)。そのように考える信徒はまず、いません。もしいたとしたら、その人は本当の信徒ではない可能性が大です。自分が“福音の三要素”に混ぜ物をせず信じているかしっかり吟味すべきです。

なぜかというと、実際に救いを経験した人は、「聖書が“救いと直結している”」ことを体感するからです。死後に天国に行くという希望があるから救われるのではありません。「キリストの福音を信じ、“聖霊の内住”が与えられ、“生きながらにして御国に到達する”時、その人は救われる」からです。

異端的な人間(断じて信徒ではない)が終末論を強調し、「聖書は死後の救いを教えている」という大誤解を与え、人々がそれを鵜呑みにしてしまうから、キリスト教が真理ではなく宗教と分類され、一括りになってしまうのです。“今の自分”、“今の生”が疎かになって、死後の存在が何になりましょうか。旧約の歴史書は、我々の人生に適用できる“実例集”とも呼べるものですが、ぜひ『ルツ記』や『エステル記』,『雅歌』を読んでみてください。旧約の人々がこの世の幸せを謳歌(しようと)していることがよく分かります。それはつまり、聖書が“厭世的なものではない”ことの証です。まだキリストの贖いが成就していない時代に、そういった記述があるのです。旧約には“陰府(よみ)”という言葉はあっても、地獄という言葉はありません。彼らは、死後の世界に怯えることがなかったから平穏だったのではなく、信仰によって神の祝福に与ったから幸せだったのです。まして、新約時代にいる我々が、福音によって救いを体験して、「“この世の生と共に”希望に満たされる」のは尚更です。

「救われたいから」という時の“救い”は、「絶望から解放される」という類のものに限りません。心に平穏があり、その平穏がかげることはあっても、失われることがない希望と共にある。つまり、「救いは、神に愛されているという実感です」。

このメッセージが、その体験への一助になれば。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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