2.聖句の悦び

罪の告白。(参考→Ⅰヨハ1:9,Ⅰコリ5:7)

信徒も罪を犯すことがあります。しかし、キリストによって贖われた者が過つとは、どういうことなのでしょうか。福音の三要素を信じた時、その人は信徒となり、キリストに起こったことが自らにも起こります。つまり、「この世(的な性質)において死に、霊的に新生する」ということです(霊的~、と言うと抵抗を覚える人もいるかもしれませんが、これは体験しなければわからない感覚であり、キリスト教が真理である体験的な証拠です。イメージとしては、“精神的な瑞々しい躍動”と捉えていただくと近いかと)。

この世において死するというのは、古い人(罪/貪りの欲)に服していたところから、キリスト(義/愛の性質)に“主人を変える”ということであり、もはや“古い人”は新生した者に支配権を持ちません(“古い”と呼ぶことができるのは、新しくなったからであり、未信徒はまだ一つの性質しか持っていません)。

さて、古い人(罪)は新生した者に対し支配権を持たないという話をしましたが、冒頭の言葉と矛盾しているように思えます。このことは非常に難しいですが、現状の“個人的な解釈(この点をお忘れなく)”を述べたいと思います。

律法について

1)“モーセの律法”は、生きている者に適用される(『レビ記』参照)。

2)信徒は、肉において死した。

3)モーセの律法は、信徒に適用されない。

4)信徒には代わりに“聖霊の内住”が与えられた。

5)“御霊の律法”が信徒の行動基準となる。

罪について

α)御霊の律法は、モーセの律法と異なるはずである。

β)信徒は罪において死したのだから、罪を犯すことはできない。

γ)御霊の律法は、聖霊の内住という“内からの導き”である。

古い人

a)新生した信徒自身は、“モーセの律法における罪”を犯すことができない。

b)信徒は、“御霊の律法に基づいて悔い改めに導かれる罪”を犯すことがある。

c)信徒自身は新生しているが、未信徒としての古さが残っている。

(5)、(β)、(a)、(c) より、

信徒自身は新生しているが、未信徒であった時の古さ(習慣)が残っており、それが「~してはいけない」という戒めを橋頭堡(軍事拠点)としてモーセの律法に反応する。しかし、新生した信徒には既に適用されないものであるから、古い人(未信徒であった時の自分)がモーセの律法に基づく罪を犯すことはあり得るが、新生した者(信徒となった自分)に罰が及ぶことはない。しかし、それは信徒が罪を犯さないことを意味しない。なぜなら、全ての信徒は聖化(キリストに似た者となる霊的成長)の過程にあるからである。≪信徒が犯す罪は、御霊の律法に基づくものである。それは、“「~してはいけない」というモーセの律法”のような、-事前に提示されるもの-ではなく、“「~すべきではなかった」という聖霊の悲しみ”として、-事後に提示されるもの-である≫。よって、『ヨハネの手紙第一』の1章9節における罪の告白は、“罪の質”において、行為者の性質が異なるゆえに、モーセの律法を基準としたものではないのである。

ーーと、少々難しくなりましたが、罪は「~してはいけない」という戒めを利用してくるからこそ、罪を贖われた信徒には「~できない」という性質(聖霊の内住)が与えられているということです。しかし、≪「信徒には“罪のパン種(=発酵のもと)”がない。それゆえ、(“古い”)罪を犯す可能性が-ゼロ-である」という知恵がないと、その理解の欠如を“最大の橋頭堡(古いパン種)”として、この世が主犯者となり、かつての罪に加担することを迫ってくる≫。つまり、「罪を告白すれば赦される」という恩寵を、古い罪(事前に知っている罪)を犯す口実にしてはいけないのです。しかし、新しい罪(事後に感じる罪)は、前者も包括しているので、信仰が成長して理解が及んだ時に悔い改めれば赦され、そこから全き道を歩み直すことができる、ということです。

今回のメッセージは、難解なものとなりました。私自身も、“霊的幼子”なので、信仰生活によって確認しなくてはいけません。しかし、この思想に基づいて行動していると、特に“情欲”の抑制において確信的な変化を得たので、その体験が共有できたらと、言葉にしてみました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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