4.終始と三項

羊に化けた狼。(参考→マタ7:15,エゼ22:27)

α:ある人は言います「信仰は個人の自由なんだから、各々が幸せならそれでいいじゃない」と。たしかに、信仰を強要するのは明らかに間違っています。信ずるということは“極めて自発的な営み”だからです。ただ「各々が幸せなら」というところが引っ掛かります。現代において、いや、人類史をみて「各々」が幸せを追求した結果「個人」は幸せになっているでしょうか。少なからず空しさが伴っているという意味で、達成度は低いと思います。

§:冒頭の文言が示すのは“リベラルの思想”です。ことさらに重視されるあり方ですが「各々が自由にやったらいい」と言われたらどうなるでしょう。結果的に生ずるのは“同調”です。「“自分”が明確になっている場合に“枷”がなくなる」というのがこの思想の強みですが、行動基準が定まっていないと、周りに合わせて「かくあるべし」に従うことになります。そこにほんとうの自由はありません。「自由主義を掲げる論者が全員間違っている」と言いたいのではありません。しかし、そこに“悪意をもって紛れこんだ者”がおり、そういった輩に操作されている可能性はあります。

§:聖書のメインテーマは“救い”です。それは漠然としたものではなく、むしろ幾通りも言明が可能なものです。そのうえで押さえておくべきは「“人”としての救い」を説いている点です。死後の世界を強調し過ぎる人がいますが、すべては「意思(たる愛)を行使する人になれるか」という文言に集約できます。堕落した者が救済の“意思を示せない獣”に成り果ててしまうこと。それが「ゲヘナに落ちる」ことの本質です。

§:“キリスト教”は、なぜ煙たがられるのでしょうか。勘違いしている人が多いのですが「自分のしてほしいことは他の人にもそのようにしなさい」との主イエスのお言葉は「隣人のものを奪いとって(害を与えて)はいけない」という“旧約の基本道徳”を知った人に向けたものです。「冷ややかな目を向けられること」は“自分のしてほしいこと”ではないでしょう。そうではなくて「各々が幸せならいいじゃない」と言いつつ己が行動基準に空しさを感ずる人に、自分が知った“御教えという真理”たる神の行動基準を伝えること。それが、福音を実行したキリストの意図なのです。主イエスは「“旧約における自己愛の否定”を伝道すること」を「聖書(父なる神)の愛だ」と教えたのです。このことは、旧約を下地にしないと解らないのです。だから、一冊の聖典を「旧約“聖書”」と分離しがちな“キリスト教”では大義が果たしづらいのです(「旧約」と「新約」とすべきであり、“キリスト教”同様、カテゴライズを強調する名前は本来なら要らないのです)。

Ω:私は言います「各々が幸せになるために、個人が信仰に基づいた自由を行使したらいいじゃない」と。もし、世の人々が「聖書(の愛)」に行動基準を置いたら、世界は神の国に成るでしょう。「自由を尊重すべきだ」ではなく「自由を“謳歌”すべきだ」と私は思います。前者の主張は“既に何らかの思想を持った論者”が意図して言っている場合が多いです。しかし「その意図が必ずしも善とは限りません」。中には「右向け右」の人を“手駒”(モノ)にしようとしている“物質主義の獣”が紛れているかもしれないということです。ですから「疑ってかかる」べきです。懐疑主義に陥る必要はありませんが「疑う」というのは“意思の行使における一形態”(非常に強力なツール)です。当然、私のことも疑ってください。なぜなら[聖書]という選択肢を提示したうえで、皆さんが意思を行使する(選ぶ)ことが“私の意図”なのですから。私は、聖書の愛に生きます。それは“本当の自由”のために戦うことです。険しいです。挫けそうになります。でも「根気強く続けます」。剣(なる御言葉)を手にとったらば、絶え間なく世を覆う闇と切り結ぶのが、私における愛の実践的表現だからです。

-4.終始と三項
-