1.序論
a)不穏な朝
→昨夜は言いようのない心地で床についた。執筆体制が本格的に整って明日へと意気込む調子だったのだが、いざ眠ろうとした時になんとも言えぬ感覚が迫ってきたのだ。それを忘れようとするかのように寝落ちた。そうして夜も明けて随分と時間が経ったころ目を覚まし、スマートフォンの明かりで覚醒しようとした。画面の上方に表示されたフォトフォルダのアイコンをタップすると、八年前の今日の写真。栄養を送る管がつながった母と私が写っていた。忘れもしない。「おかあ、一緒に写真撮ろう」。今でも昨日のことのようだ。朦朧としていた意識の最後を使うかのように母は頷いて承諾してくれた。お世話になった訪問看護の人が「病床で写りたがる人、あんまりいないんだよ」と私に対して母をたたえてくれた。間もなくして、母は昏睡状態になった。
b)浄土宗
→未だに私は仏教に苛まれている。ゴータマが遺した「私は悟った」という言葉を拭いきれないのだ。単なる妄言なのか、それとも真実なのか。彼が悟ったのは何なのか。「聖書が真理だという“我が悟り”は正しいのか」と、私は不敬虔な懐疑を抱いた。そこには「寂しくなるから」と見ないようにしていた母との最後の写真を不意に目にした刺激で、「聖書の教えでは母がどうなったか分からないが、浄土宗に基づけば確実に往生している」と思ったことが一枚噛んでいただろう。
2.本論
c)阿弥陀
→キリスト教と仏教には共通点があるという説がある。しかし、実際には相容れないものである。浄土宗の教理は「わしの名を唱えたもの皆が成仏できん限り、わしも成仏せん(阿弥陀は世にいない→皆が成仏する)」というものだが、これは論理の誤用ではないだろうか。この法則だと、誰でも阿弥陀になり得えてしまう気がしてならない。実際は「わしの名を唱えたもの皆が成仏するまで、わしは成仏せん(皆が成仏するまで→阿弥陀は世にとどまる)」とあるべきで、そういうことならば、わからなくもないのだが。何事も考えなしに聞き入れてはいけない(が、考えたうえでのことなら自分の思う通りにすべきだ)。[普遍救済主義]にも言えることであるが、無条件の救いは“救済”とは言えない。なぜなら、全き隣人愛に至ること(人格の完成)が救いの本質であるから、救われたいという願いが自己愛から切り離されない限りは、そこに到達できないためだ(だからこそ、母ほどの愛に生きた人が神の御心に適わぬはずがないことを私は確信している)。
d)教典
→我々は、諸宗教の“キョウテン”は「人間による宗教的哲学書」である場合がほとんどであることを知っておく必要がある(もちろん、自分で選び取ったならそれで構わない)。その観点を以って聖書をみたとき「この書こそが唯一の聖典だ」と解る。確かに、教典と呼ばれるすべての書に目を通すことはできない。しかし、聖書は唯一性に基づきながらも、歴史と預言者と使徒の証言によって一貫した整合性があるものだからして、もはやそれ以上は要らないのである。簡単に言えば「他との比較は聖書の(過去と未来まで含めた、)歴史において既に為されている」ということだ。
3.結論
e)神を見せてくれ
→私は答えよう。「聖書が神の臨在における一形態である」と。人間でありながら聖なる神の顕現を望む人々が「神を見せてくれたら信じる」と言ったらそれは「神なんて信じない」と主張しているのと同値である。もし「聖書は神の御言葉だから、その教えに整合性があれば、発話者は存在しているよね」と説得して、すぐさま開いて確認するほど驚くべき素直さを備えた人物がいたら、知覚(α;すなわち、神を人間の次元に下げること)を前提とした信仰などないことを彼は知っているだろう。
f)驚くべきこと
→先の文言αのような出来事が、実はあった。すなわち、神が人間の姿をとられたことがあったのである。それが新約の証するキリスト・イエスである。ただでさえ、神が遜って世に現れることが尊きことなのに、人間の側から「何度も来てくれ」などと言うことが無礼極まりないことはわかるだろう。我々は、必ず何かを信じなければ存在できない。信じる以上は、真理を。我々に求められているのは、ゴータマが悟ったという諸々の伝承とイエスが到来したという聖書の救済史、そのどちらを選びとるかなのである。
g)阻み
→私は気づいたのだ。サタンに「お前は救いを失った」と誤解させられるという阻みから立ち直って早いものでもう一か月になるが、今度は「お前の救いは正しいものか」という問いを突きつけられたことに。本当に狡猾な悪魔である。しかし、この阻みと、それへの勝利こそが、聖書の真理性を逆に証明した。またしても私は、我が御父の足元にサタンがひれ伏すさまを目撃したのである。こうして、私のこのはたらきは、ますます盛ることだろう。