3.威張るブログ

聖書の読み方。(参考→IIテモ3:15-17)

1.序論

a)聖書をどう読むか

→真理に出会いその深奥に向かうために、どのように聖書を読んだらよいだろうか。私は現在、『新実用聖書注解』を用いている(これは、福音派の聖書神学に基づいたもの)。その中で「これからも、この注解を基本にして福音派の教理を固める」のか「他の注解を読んで多面的な理解をしながら、自分なりに進んでゆくのか」あるいは「聖書のみを徹底し、注解なしでやっていくのか」などといった選択肢に直面した。いよいよ執筆体制が整ったゆえ、研究の時間をより充実させることを考えはじめたのである。

2.本論

b)日本語訳

→日本語訳であれば、そこには当然、訳が施されているわけだから、「聖書のみ」を徹底するならば原典で読む必要がある。しかし、私は英訳の聖書でも頭の中で日本語に訳してから読むので、遠回りだ。確かに“文語訳,口語訳,新改訳,新共同訳(聖書協会共同訳)”のいずれかの日本語訳聖書(基本的にこれ以外に手を出してはならない)でやっていくと通読は早いが「字義通りに読む」時には歴史的背景や全体を研究したうえでの分析がないと、実際には誤読する可能性がある。そのリスクをみないと、自分の解釈に依ることになり、自由主義神学に陥りかねない。

c)選り好み

→そうすると“自由主義神学”に基づかないために、何某かの神学に依る必要が生ずる。ここで「一つの神学的立場をとるかどうか」ということを検討する必要がある。聖書神学は、字義通りの解釈に基づくときには「教理の中心をどこに据えているか」によって“全体の解釈が変容する”というのが私の見解である。かくて「聖書全巻を通して神のメッセージが成っている」以上は、聖句一つでも「この神学のここだけ」という“切り取り”は危ういし、不自然になる。よって、諸神学をかいつまむのでなく「聖書全巻を“一貫した軸”で読む」べきである。だからして、自分の聖書理解を深める時に養うべきは「どの神学の立場に自己を据えるか」を決めるときの“霊的な目”であると言えよう(だから「この立場は違う」と思った時には、祈りつつ再度検討し直すとよいだろう)。

d)壊滅的なカルト

→この論考は、自己分析の意味も込められている。というのは、先に述べたように、いよいよメッセージを頻繁に語っていくとなった局面で、真理を曲げてしまったら、私のはたらきは“無意味”どころか“有害”になってしまうからである。そこには、かつて私が関わったカルトによる洗脳からの教訓がある。彼らが“成約のイエス”(この言葉自体が意味不明)と呼ばわる教祖は、自由主義神学の末路を示すような壊滅的な読み方をしていた。盲信者たちが「ある牧師さん」と隠語で呼ぶその男は「聖書を2,000回以上通読したエライ人」らしい。怒り、嘲笑、悲惨を通り越して、私はもはや無感情だ。何が言いたいかといえば「間違って千回読むより“義しく一回”通読するのが何より大切だ」ということである。聖書にたどり着いて「これから」という人に「偽教師には、いくら注意しても、しすぎることはない」と伝えておきたい。私は、かの“エライ人”のような反キリストでは決してないが、疑ってもらうくらいが、むしろいいとさえ思っている。

3.結論

e)目指すもの

→私が目指すのは「“聖書信仰者”としての旅路を共有する場をつくること」である。人間である以上は、ときに牧会者も過つ。キリストしか真の牧者はいないからである。事実、三位一体の教義を掲げ「位格に差はない」と言いながら、主イエスのお言葉にも反し“[父なる神]への讃美が歌われない”という状況が、教会の現状としてある。だから私は(牧師ではないが、)メッセージそのものが成長過程にあり常に未熟であることを認めながら、だからこそ、その旅程に意味があると思っている。私個人は、いかなる道にも通ずる「哲学的アプローチ」すなわち“テキスト分析の技術”を神の導きによって学んだので、大いに活かしてゆきたい。ひとまずは福音派神学を軸に据えて、教理に対して「なぜ?」をぶつけて、多くの躓きに応えられるような“聖書哲学”を以って伝道したい所存である。力ある信徒になる(可能性がある)ほど、阻みもあろうが<聖霊の導きと、主イエスのとりなし、父なる神の御恵み>に依っていれば、然るべきところに至ると、私は信じている。

f)未信徒への勧め

→「聖書を読んでみたいけれど、どう手をつけていいか分からない」という人には、“新共同訳聖書のスタディ版”を<『ルツ記』⇒『マタイの福音書』⇒『ヨシュア記』~『ユダの手紙』(前述の二巻も含めて順番に)⇒「モーセ五書」(冒頭の五巻)⇒『ヨハネの黙示録』(読めなくてもよい)>という流れで“一日2~3章のペースで無理なく読む”ことをオススメする。まず、この聖書は中立的かつ必要最小限の注がついている。聖句のみだと神聖さが強調されすぎて手が出にくいかもしれないが、注があれば“書”に近いかたちで読むことができるし、“迷子”になる可能性もかなり低くなる。分厚いけれども、通読においては「全体のどこにいるか」がわかったほうがよい。『ルツ記』から読むことを勧める信徒は少ないだろうが、聖書のイメージが変わると思うので、未亡人となったルツがどうなり、その出来事が『マタイの福音書』における系図にどう関わっていくか、実際に確かめてみてほしい。読めるときには一気に進めてもよいと思うが、コツコツ読んでいくのも趣深い。一周目は流し読みしたほうがいい箇所(詳細な祭儀規定など)もあるので、文脈から離れないで字義通りの理解が可能な範囲内において、工夫してみてほしい。西洋文化の理解や美術の楽しみかたも深まるので、ぜひ、素晴らしい旅へと出航していただきたい。

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