2.聖句の悦び

肉欲と聖化。(参考→ガラ5:14‐16,マタ5:28)

信徒としての完成に向かってゆく聖化の過程における、私にとっての最も大きな障壁は、どこまでも「姦淫をどう扱うか」というものです。私は、肉体的な貞潔こそ保ってはいるものの、(信徒として考えると)重篤なポルノ依存の状態です。しかし、性的な欲が人類の保存を想定した一つの祝福として肉体に備えられたものならば、その処し方について、「結婚に際するもの以外はすべて断罪」というのが厳しすぎると思ってしまうのは、人間的でしょうか。

律法において、“漏出の者を清める”方法が定められていますが、以前取り上げたように、聖書では自慰について明確には語られていません。自慰が罪かは分からないのですが、「他者の妻を情欲の目で見たら姦淫である」という旨を主イエスは語っています。それは、画面越しの不貞がまかり通る現代を予知したもののように思えます。

情欲はなぜいけないのでしょうか。貪りだからです。貪りとはなんでしょうか、相手を支配することです。それは愛の欠如です。愛がただしく踏襲されるためには、契約が必要なのです。

しかし、例えば、絵画などの創作物に対して、契約を結ぶ必要はあるのでしょうか。実在しないものは、支配の対象にはならないのでは。“三次元の対象を誘発する危険性”さえあれ、創作されたメディアを“はけ口”にするのは、理論上は、聖書の記述に違反ないと思われます(ただ、ポルノ誘発の危険性はあまりに大きなリスクです)。

「すべての律法は、愛によって全うされる」そして、「人は、神と罪の両方に仕えることはできない」とも書かれていますが、なるほど、“愛そのもの”と讃えられる神には、その対概念である罪にあっては近づけません。しかし、そもそも罪が何なのかが明確にならなければ躓くことになりましょう。

キリストの贖いを信じた人は救われます。その時、罪は消えました。(私の理解では、)正確に捉えると“罪に定められることがなくなった(≒義認)”のです。その理由は、神からの愛(受動的愛)に対して、信仰(能動的愛)によって応答したからです。このことこそ、先にみた“契約による愛の踏襲”の究極形です。そして、この救い(「古いパン種(過去から常習化した罪の習慣)によって、これからも罪を犯す可能性はあるが、それは赦されると決まっている」という祝福に与ること)を理解した者が、自分から放縦になることはあり得ないのです。

聖化とは、いわば現在進行形の救いですが、伝統的な教義によると、それは生きているうちには完成しません。しかし、信徒になって間もないうちに死した人はどうなるのでしょうか。あるいは、栄化(救いの完成)が死後に起こるならば、天国にたどり着くまでに煉獄のような場所があるのでしょうか。

信徒は、やがて“完成されたからだ”になります。それは、“全体的な人格”の完成にあります。書簡の書かれた時代に猛威をふるっていたギリシャ哲学的な“霊肉二元論”つまり「肉体と魂は全くの別であるから、肉体をどう扱っても魂には影響がない」という考えは非常に危険ですが、“肉体から離れた時に身体欲求から離れる”ことはあり得そうな気もします。

「神の国は、御子の贖いを信じ、父なる神と和解したとき、生きながらに踏み入ることができる」と考える私がこのほど考えたのは、「聖化とは、肉体にありながら限りなく霊体に近づくことなのではないか」ということです。そのゆえに、どれだけ完成させようとしても、地上生涯においては達成不可能なのだと。ただ、それでも、“肉の欲をころそうとする”ことがどうして求められるかと言えば、そのことが信仰の表明だからだと思うのです。その信仰の目的は、「神のみもとにあって、幸せであること」でしょう。教義に反することを助長するメッセージを発したいわけではありませんが、律法の目的は愛の踏襲にあり、もはや律法の下にない信徒は、愛を踏襲することが恵み(への信仰による応答)によってできる状態にある以上、禁欲的になって過度に自分を鞭打つことに意識を向けるよりかは、生きながらにして“肉に属さない”感覚を味わう、という点に悦びを見出すことが重要なのではないかと考えました。

「これからは罪に定められなくなったという“状態”(過去形の救い)」が義認、「罪に定められない恵みに信仰で応じるという“実感”(現在進行形の救い)」が聖化、「完成されたからだになるという“希望”(未来形の救い)」が栄化…というように捉え直すと、いずれも“今、ここ”において幸せであることに繋がっていることがみえます。いずれも、“父なる神の愛”と“子なる神の命を賭した贖い”および“聖霊なる神の導き”が一丸とならなければ起こり得ないことです。今回の見解については考察の余地が多分にありますが、いま、この奇しき恵みにあやかっていることに、ただただ感謝したいと思います。

最後までありがとうございました。

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