2.聖句の悦び

自慰は罪か。(参考→創38:8,ロマ14:23)

「宗教は禁欲を押し付ける」と主張する人がいます。

私もそう思っていたので、分からなくもないですが、

1.宗教というカテゴライズは、誤った教えも一括りにしてしまう

2.その誤謬にも関わらず禁欲はそれ自体で普遍的な意味を持っている

ことを見落とさないようにせねばなりません。

聖書では、性的不道徳を“姦淫”として強く戒めますが、どのようにすれば、未信徒であったときに知ってしまった罪を遠ざけられるでしょうか。

私は、自慰行為がその抜け道だと思い、霊的妥協をしていました。

しかし、聖書に出てくるのは、語源となるオナンという人物の記述だけです。

旧約聖書の冒頭に置かれた『創世記』にオナンは出てきます。

オナニーという言葉は、彼に由来しますが、

そのこと自体は戒められておらず、彼は、

「長子の権利を放棄して(A)、精液を地に流した(B)」

ことにおいて罪と定められているのです。

彼の問題は、(B)でなく(A)にあったのです。

では、自慰は罪にあたらないのか。

確かに、自慰が罪であったら、明確に書かれているはずです。

理性的に考えても、自慰に至る過程は、明らかに罪です。

にも関わらず、そのことを直接戒めた聖句がないのはなぜだろう。

私が考えるに、

「聖書は、自慰について黙しているのでなく、自慰という概念を定めていない」

のではないかと。

もし、自慰行為が“単なる精液の排泄行為”だとしたら咎められないでしょう。

しかし、

「自慰行為は、自分一人で完結する行為ではない」のです。

言うなれば、

精液の排泄である“オナニー”と、

貪りの姦淫である“自慰”は、別のものであると。

マタイによる福音書5章28節のイエスが語った言葉は、

今の時代を予見しています。

淫らな目で他者を見たら、それは姦淫です。

では、生身の人間でなく、架空の二次元的創作物だったらどうか。

これは“抜け道のようで落とし穴”です。

仮に漫画やゲームであっても、その話で性行為の描写があったとしたら、

契約行為を外から眺めるという不自然な状態になります。

1.姦淫は契約を軽んずる行為である

2.契約は愛である

3.愛は貪らないことである

4.信仰は愛に基づく

5.信仰によらないことはみな罪である

この観点に加え、

a.自分の身体は生身である

b.性質を共にせずとも契約は履行される

c.世には神(の教え)とサタン(の罪)がある

d.我々は二人の主人に仕えることはできない

という仕組みがあります。

自慰は、“自己完結”に見えますが、

その実態は、“必ず相手を立てなくてはならない行為”です。

なぜなら、自慰は「相手がいないときに自らを慰める」ようなものではなく、

「情欲を相手として契約すること」だからです。

性欲が生理的な欲求としてくるならば、“オナニー”として処理すればいいでしょう。

しかし、そうはいかない。

よく、

「食欲・性欲・睡眠欲は、人間の三大欲求である」

と言われますが、この人間的考え方は躓きのもとです。

我々は本来的には、

「食べたいから食べるのでなく、食べなくてはいけないから食べる」のです。

「眠りたいから眠るのではなく、眠らざるを得ないときに眠る」のです。

これらは、“欲”と言えるでしょうか。

もしそう呼ばれるなら“受動的欲”と言えます。

では、性欲はどうでしょうか。

そう、必要性がないのです。

いわば、“能動的欲”なのです。

能動的に欲求を満たすとは何でしょうか。

貪ることです。

そのゆえに罪なのです。

旧約の時代にも、新約の時代にも、

ポルノはありませんでした。

彼らが、自慰“的な”行為をしていたとしたら、

対象となる相手を想像して行ったでしょうが、

それは情欲に基づくので姦淫です。イエスが仰った通りです。(参考→①)

それゆえ、

聖書には

「姦淫か自慰か」という区別はなく、

「姦淫か姦淫でないか」という基準しかありません。

厳密に言えばそれは、

「信仰に基づくか否か」(参考→②)

なのです。

ですから、

対象物がなんであれ、自慰行為は罪を避ける抜け道にはなりません。

ありもしないもの(自慰)が抜け道になり得るはずはなく、

ないものを抜け道と思っているなら、それは堕落への入り口でしかありません。

不自然極まりない二次的創作物や、画面越しのおぞましい姦淫の現場。

こういったものが合法とされていて、あたかも当たり前のようになっている。

「ポルノは、

1.人間に都合のいいルール

2.盲目的な同調

3.契約の甚だしい軽視

4.肉的性質への執着

挙げればキリがないほど、

≪不信仰の世を象徴したもの≫です」

ここまで語ってきましたが、

当人が一番、慄いています。

これからどうすればいいのでしょう。

ポルノ依存は、霊的な病です。

聖霊の導きに委ねるしかありません。

なぜ、情欲と契約してはいけないのでしょう。

信徒は、神と契約しているからです。

神と契約している状態で、情欲と契約することは不可能です。

情欲は“裏切り(不義)”ですが、神は“義”だからです。

信仰の契約は破棄されず、しかも無期限です。

人間が霊的に不完全であったとしても、神の契約は完全であり、

必ず全うされるはずなのです。

「信徒は既に勝利者です。

この世と戦う必要はありません。

戦う価値のない相手を見限ることです」。

そのように言い聞かせる私です。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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