3.威張るブログ

被造世界。(参考→創1:)

1.序論

a)被造世界

→「神がいるなら、こんな世はおかしい」という声はよく分かる。聖書に基づいて簡潔に言えば「罪の影響で被造世界は壊れている」との回答になるが、それ以上の言及をしないと曖昧なままになるだろう。というのは、聖書の教えが間違っていることは断じてないが、愚かしくも“真理を拝借したシュウキョウ”が、偽りの同情とこの世界の否定という手法で、迷える人々を「入信」させてきたからである。

b)保存則

→どう答えるべきか。回答の前にまず、被造世界の原理そのものは壊れていないという基本原則を確認したい。それは、皮肉にも事あるごとに聖書の教えと対立する科学の功績なのであるが、世界の物理法則は完璧に調和している(そこから「ゆえに神の介在はない」という答えに至る前に「では“どうして”調和しているのだろう」と問いかけるところに天才たちの思考が向かわないのは非常に残念なことだ)。物理法則は自然法則でもあり、つまるところ被造世界においては全てが保存則のように釣り合っている。だからして「神が介在するのは(特別な場合を除いて、)人間の意識に対してである」と言える。

2.本論

c)正確な回答

→神の力が意識に対して働き、創造の秩序に基づいた法則によって動いている世界に人間が参入する(すなわち、行動する)という基本原則を理解したときにようやく、冒頭の問いかけに内在する本質が見えてくる。つまり「こんな世はおかしい」という嘆きが意識に発するとき“不満の向かう先が神である状態”が壊れているのである。つまり、神が意識において動かれ、それに付随するかたちで保存則の世界での行動が規定されるために、御父に対して尋ねることをしない以上は、その状態が本来的ではないのであり、つまるところ「神がいるなら、こんな世はおかしい」という問いは“神がいる”事実を悟った者が発することはないのである。先の「被造世界が壊れている」という命題の真意は、いわば「被造世界の“捉え方”が(罪によって)壊れている」ことにあるのだ。

d)身体の問題

→しかし、物理法則の外にある問題もあろう。たとえば病である。筆者は成人してそう間もない頃に、進行が早すぎる病によって最愛の母を亡くしているので、このテーマは特別である。現状での理解は「意識上において神がはたらかれる」ことを基本に、未信徒が病に罹るのは意識的変化(回心)のためなのではないかと考えている。人が死するときは何かしらのかたちで意識混濁に陥るが、その際に御父が介入なさることに希望を置いている。確実に言えることは、信徒は「どうしてこんなことが」ではなく「どうしたらいいですか」と祈りによって尋ねることができる状態にいることであり、ある意味それが地上生涯においては一種の“救い”なのだと。だから、諸々のことが納得できない未信徒の人々に、そこから脱する鍵である福音(聖書全巻を通して解る真理)を伝えるという、現状し得る最善手を私は打つのである。

3.結論

e)神という作者

→じつに多くの人が、というより人間は基本的に、神を否定することから入る。しかし「もし神が居なかったら」という前提(つまり、神が居られることを基本とする立場)から世界をみたほうが遥かによい。神が-つまり全てを統べ治める方-がいなければ、一見すると不条理にみえることが“そのまま放置される”。「この世界で起こることは遠視的にみること(信仰)によってしか解らない」という聖書の歴史が伝えている真理のメッセージを無視することは<喜劇の途中に配剤として置かれた寂しいシーンでがっかりして退席し、劇場を後にした途端に観客が笑いながら拍手したことに嫉妬して、監督を非難するようなもの>である。だから、我々がこの世界を生きるときにはいつも、自らの人生を一つの物語として捉え、最後まで席(信仰)を離れないで観続けることが肝要なのである。そうしてこそ、心が温まる。

f)観客

→気をつけなくてはいけないのは、我々は一つの壮大な物語を観ているのであって演じているのではない点である。つまり、登場人物に自己投影するのが本質であるから、自分は神(創り主)なしには存在し得ないし、他の観客がいなければ劇場は必要ないのである。だからして、まず信徒が背負う役割は、眠気におそわれてしまっている未信徒に「既に招待されて劇場にいる」という事実を伝えること。そして、他の誰かが淫夢をみて寝言を言ったからといって自分まで眠気を覚えないことである。ひとたび観ることを始めたら最後まで目を覚ましていないと、あまりにもったいないのだから。

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