A:「被造世界は壊れているのか」
との問いは、どのような意味においてであるか。
というのも、
かの聖典からは、
B:「創造された世界に罪が入り込んで、本来性が失われた」
ということが支持されるようだけれども、
B2:「罪が入り込んだのは、人間の内にである」
からして、
A2:「“被造世界”に住む“人間”が、本来性を失った」
という考えが正しいように思えるからである。
いかにも、
C:「自然そのものは美しい」
通りである。時として、
C2:「自然の現象が不条理な結果を生じさせる」
ことはあるけれども、それは、
自然そのものは、常に美しく、
D:「いかなる影響を被るかによって、“人間にとっての”自然が変容する」
ということに過ぎないように思える。
このように、
E:「被造世界には、物理学のような法則が完結的に作用している」
ことを考えると、
命題Aに対しては、
A*:「被造世界は壊れていない」
という回答ができそうで、
A2*:「被造世界に意味づけをする主体である人間に変化があった」
と考えるべきかもしれない。
F:「人間は、存在する以上、空間に属する」
の明らかで、
F2:「空間に対して意味づけをするのは、存在の主体である」
以上は、
G:「存在空間そのものよりも、存在主体である自己が肝要である」
ことは明らかである。
そのような自己意識のなかでも、
H:「義しい信仰は必要である」
との主張があくまでも肯定されるべきである。
というのは、命題Gを考えた時、
B2*:「存在主体である自分は、本来性を失っている」
がゆえに、
G*:「存在主体である自己の回復は、世界(の受け取り方)が回復することである」
からである。
つまり、
F2*:「どの空間に属するかでなく、どう存在するか」
ということが、人間に提示されているから、
H2:「神との本来性の回復が、存在の回復につながる」
ことを支持する次第である。
よって、世界の有り様というのは、個人の霊的状態に左右されるからして、
∴「被造世界という空間に在る個人が、信仰によって本来性を回復することが必要である」