A:「人間が把握し得る最も確実なものは、言語である」
それは、
A2:「理性を司るものは、思考に他ならない」
からである。
というのも、
A3:「思考とは、言語で構築される」
ゆえである。
ここで、
B:「言語のない世界は想定可能である」
だろうか。
おそらく、
B2:「言語のない世界は想定し得るが、そこに理性的存在はいない」
と言えるだろう。
つまり、
B2*:「言語のない世界に人間は存在しない」
はずである。
命題A2は、
A2*:「人間が理性的存在である」
という主張ゆえに。
しかし、
C:「言語によって、言語のない世界を“思考”(想定)できる」
のは事実である。
このことは、
C2:「言語は、言語の外にある世界を把持し得る」
ことを意味しているのだろうか。
この問いには、前提である命題Aから、
A*:「思考の“媒体”である言語が真であり、思考そのものの正否は不確定である」
という回答ができるであろう。
しかしながら、命題B2*の導出過程においては、
A2**:「人間“だけ”が理性的存在である」
という前提が含まれている。
つまり、
D:「人間以外の知的存在が現れることが考えられる」
ことを見落としてはならない。
ただし、
少なくとも、
E:「人間が存在し得る場所は、言語が及ぶ場であるはずだ」
という主張は正しい。
あくまでも“媒体”としての言語の確実性を述べる命題A*に対して、
A**:「言語は真であるが、それを用いることが可能な場でしか、言語は真ではない」
からである。
ということは、命題C2について、
C2*:「言語の外にある世界を、言語(思考)によって真に把持することはできない」
ことが言える。
つまり、命題Cの行為は、
C*:「人間は、言語のない世界を“思考”できるというのは正確でない」
と言える。
つまり、
C**:「人間は、“言語のない世界”という“概念”しか“思考”することは不可能である」
のだ。
このことは、実際に試みると速やかに明らかになるであろう。
一方で、
F:「人間は、死後の世界について思考(想像)することができる」
ここで、
F*:「“死後の世界”の想像は、“概念”にとどまらない思考である」
ことから、命題C**の導出過程より、
F**:「死後の世界には言語が存在する」
ことを明らかにしており、
G:「言語の存在は、話者の存在である」
から、
G*:「死後の世界には人間が到達できるはずである」
ことが明らかとなる。
ゆえに、
∴「明確な思考ができる死後の世界には、言語で想像可能な以上、人間が存在し得る」