4.終始と三項

誇るべきは剣。(参考→Iサム15:22-23,マタ21:42,エペ6:17)

α:ここ数日、伝道を志す者として気づくところが沢山ありました。仲間うち“だけ”で楽しくやって、身内だけの救いに満足している“ように”映る地域教会の雰囲気が苦手で、主イエスに讃美が偏っている明らかな「間違い」に気づけない教会組織に懐疑的となり「キリスト者」を名乗ることをやめた私。「日本が道徳的に腐敗し、現代教会が組織としてやや高慢になっている」と気づいたところまではよいものの、知らずのうちに「この国では“自分だけ”が正しい」と傲慢になっていたのです。それも、学びを重ねて教理理解のただしさが裏打ちされるほどに。

§:私は、本質的には“この世”(正確には日本の異教文化)への「怒りを動力に」伝道していました。未信徒の人たちに憤っていたのではありません。しかし、“世”の物質主義と相手取って苛烈に戦う姿を見せて「私は聖書の御教えに生きる者です」と表現することは、読み手の皆さんに「この過激さが聖書の思想なのか」という誤解を与えてしまうことに繋がりかねないことさえ、視えていませんでした。自らの罪との対峙を乗り越え、信徒になってただ一つ“新たに”陥る「高慢」には気をつけていたつもりが、はたらきに酔って、闇に片足を取られていたのです。

§:自己吟味を忘れず、適度な柔軟性を。しかし、“自らを吟味する姿”に酔いしれていたとしたらどうでしょう。私は、いわば「千鳥足を優雅な歩き方だと思っていた」わけです。「自分が柔軟だと思う」とき、聖書理解に柔軟性は発揮していたでしょう。しかし「論理立った厳しい論調こそ曖昧さを無くしたスタイルだ」とする表現方法は、明らかに“頑固”でした。「口下手な私はあくまでも“ワクチン”を開発して、理解ある打ち手(伝え手)に読み取ってもらおう」というのは、技術不足ですし職務怠慢です。ちょうど世間では“ワクチンの安全性”がこれほど議題に挙がっているというのに。

§:私に誤りを気づかせてくれたのは身近な人達であり、それは“未読”というメッセージによってでした。「周りの人にさえ真理が伝わらない」いや「身近なほうが伝わりづらいんじゃないか」。そういうことではなかったのです。私は、身内をはじめ、多くの人(ライフラインはじめ、各々の賜物で働いておられる皆さん)に支えられてはたらきをしているのに「威張って」いました。私の活動は、威張る“かのように”綴る趣旨のものなのに「“本当に”威張っていた」のです。さも賢人になった気でいたのです。メッセージにおいてある程度の“断定”は必要です。聖書の御教えはその通りに伝えるべきです。しかし、そうであるならば「遜り」の姿を忘れているとはどういうことでしょう。

Ω:キリストに贖っていただいたという福音。それは、父なる神が独り子さえ惜しまず人類を愛され、御子イエスが神の御身分であられながら人の姿をとられたことを礎石とします。その「自己否定」と「謙遜」こそ、貪りという物質主義を打倒する“真の愛”です。私は「地に足をつけてでなく、もはや地に墜落することはない」という御恵みによって「霊に燃え、信仰に燃えて羽ばたきます」と神に祈っています。しかし私は、高いところを飛ばせて“いただいている”身でありながら、なんということでしょう、内実は大地を見下ろして悦に浸っていたのです。それは、突き詰めると「自分を高く上げる高慢という支配欲」であり“貪りの罪”でした。この学びを糧に、これからは、高く飛ぶのでなく、美しく翔びます。世と戦うにも、御霊に従って剣をとります。私はきょうという日に伝道の姿勢をあらため「愛を以って」というより「愛“そのもの”を麗しく表現していきたい」と、決意した次第であります。

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