3.威張るブログ

選択。(参考→Iテモ4:7,創3:17)

1.序論

a)伝道を前に

→ここ数日、夢でうなされた。本格的な伝道を前に、たじろいでいるのだろう。耳を傾けたうえで反対意見をくれる人はむしろ有難い。しかし、誹謗中傷を受けることはまず避けられないだろう。覚悟はある。しかし、周囲からとめどない愛のみを受けて生きてきた“温室育ち”の私に、どこまで処せるだろう。

b)自由の尊重

→何を信仰するかは各々の自由だと思う。私はそのこと自体には異論なしである。しかし、信仰の自由が本当に意味するところは「何を信じてもいい」という点でなく「何を信じるか“選んでいい”」ことにこそあるだろう。要するに、他者が“信仰の自由”を真に行使するためには、召命意識がある誰かが自身の信ずるものを言明し、選択肢として提示する必要があるということだ。

2.本論

c)自由意志

→だからして、私は自分の信ずることを選択肢として提示する。現に上記の論も“自由な意思決定”を尊重する教えに基づいている。聖書は、伝道に際しては異教に対して妥協せずに真理を伝えるように命じているから、私は自身の力不足を承知で、知り得る限りの内容を偽りなく精確に伝えなくてはならない。

d)断言

→ときに“明言されていることに関しては断言する”必要がある。それが俗世的な常識に反するとしても、通さなくてはいけない。なぜなら、選択肢の内容は明瞭でなくてはならないからである。それを曖昧にしては、当然、自分が伝えたい真理は他者にとっての「選択肢」になり得ず、光も届きようがない。

e)お節介

→煙たがれるのを承知で、理由なくわざわざ伝道する者があるだろうか。私はなぜこれほどまで聖書の内容を伝えたいのか。いたって明確である。すなわちそれは“本来ならば”「伝える必要がないものだから」である。「読めば誰もが分かることだから」である。「目の前にあるのに、選択肢にはないものだから」である。そのゆえに、手に取るまでの導入をするだけでいい。私のような者の役目は、それ以外に無いなのだ。自由であることは聖書的だ。何しろ冒頭の『創世記』におけるアダムとエバの“選択”から、すべては始まっているのだから。「選択を間違えた」。もし、聖書という選択肢に一瞥さえもできないとしたら、それは罪の自己証明である。

3.結論

g)辛さ

→伝道に反発されることは痛みである。何が苦しいか、その本質は「自分(の信ずる大切なもの)が理解してもらえない」ところにあろう。しかし、挫けてはいけない。百人に届けた光が、そのうちの一人にでも受け入れられたらいい。何より、光を受け取らないことでなく、届かないことこそが悲劇だ。「選択する意思があるのに、選択肢を知らなかった」。その事態を避けなければいけない。その責務は信徒に委ねられている。だから私は、めげずに選択肢を提示し続ける。さぁ、これからだ。

-3.威張るブログ
-