1.序論
a)命日
→今日は、母の命日である。亡くなって、もう八年になる。前日に「いよいよ脈が止まる…」となったところから、驚くべきことに一時的に回復し、奇しくも父との結婚記念日である4月5日に息を引き取ったのであった。「記念日まで持ち堪えてくれたのかな…」と、父は語る。間違いなく、その通りだ。
b)未信徒
→母は、キリスト教徒ではなかった。しかし、クリスチャン含め、私が知り得る人の中で彼女以上に愛ある人を私はみたことがない。優しく淑やかで、とても繊細な人であった。しかし、母が闘病の中で私に見せた姿は、これ以上なく“つよい人”としての生き様だった。どんなに信徒として成長したとしても、母を越えることは出来ないだろう。今まで誰よりも愛した女性は、死への恐怖を拭うとともに、私が生きる理由であり続けてくれる。
c)浄土宗
→我が家は檀家上では浄土宗だ。私は、時に惑いに思えるほど仏教に強い魅力を感じる。だからこそ、これまで強い語調を以て振り切ろうとしてきた。それほどに興味深いものだ。そのわけは、仏教は“救い”でなく“悟り”を目指しているという意味で、単なる作り話ではないように思えるからだ。ただし、聖書信仰者としては「救いを目指すべきだ」と考えているから、仏教に対しては積極的に肯定することは控えたい。
2.本論
d)阿弥陀の本願
→専門家ではないから私見にとどまるが、本来の仏教は悟りのための“修行法”であろう。鎌倉仏教から、それが救済的なものに向かいはじめた気がする。浄土系では「衆生が往生しない限り、私は成仏しない(私は成仏しているから、衆生は往生できる)」という“阿弥陀の本願”が基本としてあるが、これは論理の誤用ではないだろうか。「衆生が往生した時、私は成仏する(衆生が成仏するまでは、私は世に止まり続ける)」のが本来あるべき筋に思えてならない。個人的な見解はこの辺りにして、少し私の回心についての話を。
e)私の本願
→私が回心するのを躊躇っていたのは、身内に信徒だった人がいなかったからだ。存命の人は回心の時間があるが、既に他界した祖父や母が浮かばれない気がしたし「そこに母がいなかったら天国とは言えず、私の救いではない」という想いは譲れなかった。だから「母が救われる可能性が見出せない限り、私は決して回心しない」という、いわば“本願”を立てたのである。
f)系図
→そこから「聖書のどこかに、ヒントはないか」と探した。私が目星をつけたのは“系図”であった。旧約からどこまでも細かく書かれるように、一貫して重要視されていることに加え「メシアがダビデの家系から出る」ことにヒントがあるように思えてならなかったのである。だから「救い主が人間の家系から現れたように、救われる者が未信徒の家系から現れることには必ず意味がある」と希望を抱き、私は回心を決めた。聖書全体のメッセージが「神は完璧な統治者である」ところにあると気づくのは、少しあとのことだったが“系図”に注目したのは見当違いではない。
g)愛と救い
→ロマ書は「一般啓示ゆえに、福音の不達は弁解の余地なしである」と言っている。しかし、そのあとの論で「律法を持たない異邦人も、それを自然に行うことはできる」と展開されている。つまり、聖書において神が語っておられるのは「福音自体が正しく伝わらないのはあり得るとして、愛を行えなければ仮に届いたとしても受け入れないだろう」という論理であると考えられる。したがって「聖書を受け入れなければ救われない」というよりは「救われる可能性のある者は(届きさえすれば)聖書を受け入れる」構造が優位性を持っているということだ。だから「あなたの愛した故人の救いは神に委ね、その想いを原動力に聖書を受け取り伝えていく」というのが、聖書的な最善解であると言える。
h)受け継がれたもの
→未信徒の救いを神に委ねる理由は「あなたが義認を受けるとき、あなたの愛(としての人格)が義と認められる」からである。先の論点と系図を考え併せると「故人の愛を受け継いだあなたに、正確に福音が届いて義と認められたのだから、亡くなった先祖に福音が届いていたら回心したはずだ」という論理が成り立つ。死の間際に神とどのようなやり取りがあるかは分からないが、私には(煉獄ではないにせよ、)「“蓮の葉”の上で聖書が読まれるような場所(機会)があったら…」と思い描く。
3.結論
i)先生の体験
→信仰義認という新約の教理を託された使徒パウロ自身は、熱狂的なユダヤ教徒であったところから“ダマスコ途上の劇的な体験”によって回心した。その事実に、含みを感じずにはいられない。だから「福音そのものを“エゴ”で遠ざけた」わけではない故人には先に述べたような何らかの“奇跡”が用意されている気がしてならない。確実なことは「その希望と願いを力に変えて、存命の人に対して何より熱心に、そして盲信的でなく精確に聖書を伝えるべきだ」ということ。救いとは、エゴに生きず「愛の選択」に生きることだ。苦しみは、愛ゆえに生ずる。それこそ、あなたが“人として”救われる可能性であり、故人さえも報われる道なのである。
j)結び
→今回は系図が要点であったが,『出エジプト記』,『民数記』,『申命記』.において繰り返し「父なる神は“先祖の咎を三代、四代まで問う”お方である」旨が語られている。未信徒が救われるという直接の答えではないかもしれない。しかし「もしあなたに福音が届いて“祝福”されたとしたら、自身の父祖に咎は…」。先の“本願”(→e)を立てた私が回心させていただけた事実の理由が、そこにあるように思えてならない。