2.聖句の悦び

気づきに瀕す。(参考→へブ6:4‐6,マコ4:13‐20)

ここ数日、心身のバランスを崩しておりました。正確には、崩れたと思い込んでいました。

きっかけは、「霊的な弱点を哲学によって補えないか」という思惑からでした。“哲学”そのものは素晴らしいですが、動機によっては誤用となってしまいます。私の場合は、「姦淫の罪をどうにか避けられないか」と、“言い訳を思想に求めた”点が、非常に愚かしいことでした。

「情欲を情欲と思っているからいけないんだ」と、姦淫の現場こそ見ないものの自分から低俗な画像に耽り、“情欲を殺そうと”した結果、逆に霊的な死を呼び込んでしまいました。聖霊の御声(≒行動を統御しようとする感覚への訴え)が届かなくなり、結果的におぞましい映像へ引き込まれました。

聖書の教えが正しければ、聖霊の内住を失うはずはありません。しかし、霊的な喪失感(≒心の空虚感)を覚えた私は、「聖書は間違っているのか?」と苦しくなり、もしかすると「自分は聖書の教えを無に帰する“反キリスト”なのか?」とさえ考えるようになったのです。

次第に錯乱していきましたが、精神疾患の類ではないことは、過去の状態から判りました。しかし、「福音を伝えても届かない」、「親しい人が救われないことに絶望するだけだ」という思考が頭を渦巻いているのとき、その原因をどうして誰かに言えましょうか。ますます多くを誤解されるだけです。

「頼まれたわけでもないのに、重く考えなくていい。自分が救われていればいいんだ」と、自己中心的なクリスチャンと同じ“リンジンアイ”を私が有していたら、さぞ楽なことでしょう。私はキリスト者です。私が持っているのは“隣人愛”です。同胞をどうして放っておけましょうか。

私は、いよいよ苦しくなって、廃人になっていくような感覚でした。死にたくない。しかし、生きている理由も分からない。「福音伝道が生きる道だった。でも、その道を行けばそれだけ、救われない人達を目の当たりにすることになる」と。さらに、「そもそも、聖霊が離れたようなこの荒み、この絶望は、キリスト教が間違っている印なのではないか?」。自分のわるい状態が加わります。

自殺しようと思わずとも、衝動的にナイフで胸を刺し貫きそうになる。「これはまずい」と思った私は、SNSのアカウントを消すことで誤った干渉をし得る要素をなくし、自分を“擬似的に貫く”ことで、応急的に落ち着かせ、眠りにつきました(おそらくよくわからないでしょう。しかし、この行動で私が難を逃れたのは事実です)。

翌日、念のため病院にかかりました。案の定、特に言われることはありませんでした。

帰宅後、また衝動がやってきた私は、「どうして?」と思いました。「救いを失ったなら、いっそ、したい放題すればいいじゃないか」と。しかし、そうは出来なかった。なぜ…?そして気づくのです。「御霊の律法は働いている。まだ、僕は救いを失っていない」。

そのことに至った時、私は、以前は欠かしていなかった、「私たちを試みに遭わせないで、悪から守ってください」という“主の祈り”をもう一度思い出しました(祈りからも遠ざかっているような状態だったのです)。その祈りには、「自分が立派な働きをすればそれだけ、阻むものも強くなる」という確認が伴っていたので、そこでハッとしたのです。「自分はサタン(≒人間的な思考/聖書から離れようとする誘惑)に憎まれている」と。

私は、救いを失っていなかった。しかし、からだ(人格全体)は健全でも、健全だという“理解(認識/自覚)”がなくなると、とんでもない勘違いをしてしまう。そしてそれは、往々にしてサタン(≒人間的な考え)から来る。

しかし、それこそは私に、“サタン(≒この世的な惑い)から厄介がられるほどの教理的な理解があること”を示していました。絶望から一転、「むしろ霊的に非常に強いからこその状態だったんだ」と、 立ち上がりました。

(くれぐれも勘違いなさらないで欲しいのですが、私はいたって理性的です。おかしい状態にある人が、こういった文章を書くことはできません。「自分は大丈夫だろうか」と疑える状態にあります。ご心配なさらず)

このほど、人間的な思考がいかに危険か、実感しました。トマス・アクィナスは、「哲学は神学の侍女」という言い方をしました。私は、「哲学は神学の導き手」だと思っています。ただ、教理を踏襲しようと思索する際の、“心理的な隙”につけ込まれないようにしなくてはなりません。

このほどの大きな試練から、大切な教訓と糧を得ました。次に予想される躓きは高慢です。慎ましく、そして、誰かの救いについて、その可能性を疑うようなことは決してせず、力強く筆をとってゆきます。

最後までありがとうございました。

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