1.序論
a)順番の錯誤
→聖書は、優先的に読むべきものである。本当は“最優先”であるが「他の書を読んで迷ったからこそ得られるものがある」こともあろうから「迷っているならば真っ先に手を伸ばすべき書である」ことをお伝えしておく。私は、幼児洗礼には肯定的ではない。信徒の家に産まれることは大きな祝福であるが「自らの明確な意思で信仰に至ることが重要である」と(一意見として)考えているからだ。だからして、信徒の家系に生まれたり、きっかけがあって年若い頃から聖書に触れることができることは言うまでもなく素晴らしいが、この世と向き合った者が聖書に出会うこともまた、美しい出来事である。
b)遅れすぎない
→ただし、聖書に触れるのが遅れすぎるのは危険である。この世は、人の愛を次々と冷めさせていく。「愛は意思の根底である」ゆえ“この世という物質主義”に染まり切ってからでは“手遅れ”になりかねない。空間としての被造世界には、物質主義(この世)と隣人主義(御国)がある。この二者を分けるのは「貪りに生きるか」「愛に生きるか」である。前者は獣のすること、後者は人間のすることである。愛に生きようとする私がしたいのは「聖書を受け入れなければ人間ではない」などという冷え切った主張ではなく「良心に生きる人にこそ、聖書は相応しい」との積極的な勧めである。
2.本論
c)なぜ最初か
→高校生のとき“青チャート”を使った人は多いのではないだろうか。受験数学というのは「解き方を覚え、未見の問題に適用する」のが基本であろう。どうして聖書を読む必要があるのかを分かりやすく言えば、聖書が「“いかに自分が存在すべきか”という問題を解くための公式集」だからである。しかし、青チャートと聖書は比較できない。より正確に言えば、聖書あっての青チャートである。それはなぜか。数学の公式は「適用させよう」と意思することによって初めて活かされる。聖書の公式は“「愛そう」という意思の根本”として公式、いわば“公式の公式”だからである。
d)洗脳
→“キリスト教もどき”は洗脳してくるが「“聖書”は全くもって洗脳的ではない」。異端や搾取宗教のせいで偏向された情報によって、間接的に洗脳された人たちが誤解しているだけである。しかし、そのせいで“聖書の教え”を“キリスト教”として伝道することは困難を極める。本来は洗脳の対極にある教えだと断言してよい。なぜなら、聖書の御教えは“愛”がその芯にあり、愛は「動機である」という意味で“意思決定”の根本だからである。よって、愛を教える聖書は、意思決定の公式(基準)を伝えているわけである。
e)善悪の樹
→聖書の冒頭で、既にそれは明かされている。“善悪の樹”が語るのは、たしかに人間の罪であるが、それは“自由意思の発露”を意味している。もし、神がエゴによって人間を操り人形にしようとしていたら、聖書がある理由がない。「読むか否か」を決められる自由、すなわち神の愛が、ここにいきなり現れているのである。本来は“生命の樹”からは食べて良かった。アダムとエバが先に“善悪の樹”から食べたから、そのうえで“生命の樹”に手を伸ばすことを神は阻んだのである。私は「“生命の樹”が、それから書かれる聖書全体の設計図を象徴していたのではないか」と考えるところがある。だから、自由意思を与えたうえでは直接(すぐに)食べさせなかったのでは、と。
3.結論
f)同調
→誤解がある。聖書が「この世」と言うときに意味するのは、空間としての被造世界ではない。それは“自分基準の考え方”である。そこには秩序などない。それを端的に表現しているのが“ポルノ”だ。「明らかに不自然だ」。それが分かるうちは、まだ何とかなる。だが、考えてほしい。「明らかに不自然だけど、みんな“普通”に観ているしいいだろう」。その“みんな”は、誰だろうか。その大多数が「姦淫は愛の腐敗である」ことに気づかず、既に愛に基づく意思を失っているとしたら、どうか。周りに同調して「やろう」と思う時、それは“意思決定”だろうか。それこそは、洗脳とは言えまいか。この世こそ、洗脳者ではあるまいか。〈(自戒を込めて、)賢くあれ、それ以上に聡くあれ。良心の声を無視してはならない。そこから考えることをやめてはならない。“普通”などない、“普遍”を追え。愛に生きて人として意思することを放棄してはならない〉。信仰に用意は要らない。必要なのは、全ての公式が書いてある指南書から学ぼうとする意思だけだ。