聖書の該当箇所を略記するときは、
( 書名 章:節 )
とするのが基本です。
書名は、
例)
『出エジプト記』2章2節 → 出2:2
『レビ記』16章10節 → レビ16:10
『ローマ人への手紙』8章 → ロマ8:
『ヨハネの手紙 第一』1章7~10節 → Iヨハ1:7-10
というように、
漢字で始まる書名は、頭の一文字
カタカナで始まるものは、二文字
二つか三つに分かれるものは、その数から
書きます。
私のメッセージも、おもにタイトルにて、この書き方で示しています。
さて、
『コリント人への手紙 第一』の1章25節には、
1.神の愚かさが、人よりも賢いこと
2.神の弱さが、人より強いこと
が書かれています。
もちろん、唯一絶対の神に愚かな点はなく、弱いところもありません。
著者である使徒パウロは、敢えて人間と比べることで、神の超越性を表現したかったのでしょう。
先日、ハーベストタイムの『ヨブ記』についてのメッセージを聞きました。
(60分でわかる聖書 シリーズ、素晴らしい。必聴です)
『ヨブ記』は、義人とされるヨブ(おそらく族長時代、大体アブラハム~ヤコブあたりの人と推測)に、数多くの苦難が起こることが詩文で描かれたものです。
この書は、「この世にどうして不条理なことが起こるのか」という、未信徒の躓く点に、
“答えないことで応える”ものです。
つまり、
「自らのご計画について、神は答える必要がなく答えもしない」
というのが解ということ。
それは、今回の聖句にもあらわれる、神の完全性ゆえです。
「そんなの、理解できないことを“信仰”で麻痺させているだけじゃないか」
という声が聞こえてきそうです。
そのことについては、
1.ヨブは義人であっても、神の前では罪人でもある(ゆえに、言い訳の余地はない)。
2.ヨブは『ヨブ記』全体のメッセージゆえに召された(つまり、人間的な理解の及ばない、神の長期的なご計画に基づく)。
3.神は“全き人”である独り子イエスを、人類のため故なく捧げた(から、何かを言われる道理はない)。
ことで応答できるでしょう。
まだ50歳に届かない“善人の鑑”と表現する他ない母を、私は七年前に亡くしました。
それまで、大腿骨を折る重症など色々ありましたが、そんな苦難が無痛に思えるほど、辛い出来事でした。
「自分に何か降りかかるのは、こんな罰当たりには仕方ない。でも、なんでお母さんが…」。
それでも、神がいることに疑いなかった私は、聖書の中に未信徒が救われる道が書かれていないかと、必死に探しました。
「もし、母が救われないなら、僕の救いなんてあり得ない」
と思ったからです。
自由主義神学や異端、カルトのように、
都合よく解釈したり、文脈を無視したり、比喩的に読んだり、
“人間の混ぜ物”をすれば、未信徒の救いが読み取れなくはない。
でも、“無理やり”です。いたって不自然です。
聖書は、字義通り純朴に読むべきです。
なぜなら、
「ただでさえ人間が罪深いことが前提なのに、それに加えて複雑な解釈を要する書き方が、聖書になされているはずがない」からです。
字義のままに文脈を追えば、一貫した線が通っているという確固たる証拠が見えます。それを受け入れないのは、自分に後ろめたさがある、つまり、人に罪があるからです。
では、私は、「母が救われることはない」と諦めてキリスト者になったのか。
答えはイエスであり、ノーです。
確かに、私は諦めました。しかし、諦めていないのです。
どういうことかと言うと
「とことん無力なのだから、“自力”を諦めよう。その代わり、“他力”を諦めずにいよう」
そう決めたということです。
唯一の聖典である聖書には、
福音の三要素、すなわち、
1.イエスが私たちの罪のために死なれ、
2.墓に葬られ、
3.三日目に甦られた(今も生きておられる)
ことを信じる道によってのみ救われる
と書かれています。それ以外にはありません。
ただ、同様に、
〈未信徒が死の間際に、神と、どのようなやりとりをするのか
聖書には書かれていません。〉
聖書に書かれていないことは、「聖書には書かれていない」という立場を取り、詮索せず、
聖書が黙していることは、我々も黙す。
その姿勢を堅持すべきです。
そして、何より「聖書全体が語っている最重要のメッセージを忘れてはいけません」。
それは、
「神が全てを完璧に治めておられる」
ということです。
越権行為はしない。
する必要がありません。
どこまでも、すべてを最善に治めてくださる神に委ねるべきです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。