2.聖句の悦び

神の権能。(参考→Ⅰコリ2:15,ヨブ)

聖書の該当箇所を略記するときは、

( 書名 章:節 )

とするのが基本です。

書名は、

例)

『出エジプト記』2章2節 → 出2:2

『レビ記』16章10節 → レビ16:10

『ローマ人への手紙』8章 → ロマ8:

『ヨハネの手紙 第一』1章7~10節 → Iヨハ1:7-10

というように、

漢字で始まる書名は、頭の一文字

カタカナで始まるものは、二文字

二つか三つに分かれるものは、その数から

書きます。

私のメッセージも、おもにタイトルにて、この書き方で示しています。

さて、

『コリント人への手紙 第一』の1章25節には、

1.神の愚かさが、人よりも賢いこと

2.神の弱さが、人より強いこと

が書かれています。

もちろん、唯一絶対の神に愚かな点はなく、弱いところもありません。

著者である使徒パウロは、敢えて人間と比べることで、神の超越性を表現したかったのでしょう。

先日、ハーベストタイムの『ヨブ記』についてのメッセージを聞きました。

(60分でわかる聖書 シリーズ、素晴らしい。必聴です)

『ヨブ記』は、義人とされるヨブ(おそらく族長時代、大体アブラハム~ヤコブあたりの人と推測)に、数多くの苦難が起こることが詩文で描かれたものです。

この書は、「この世にどうして不条理なことが起こるのか」という、未信徒の躓く点に、

“答えないことで応える”ものです。

つまり、

「自らのご計画について、神は答える必要がなく答えもしない」

というのが解ということ。

それは、今回の聖句にもあらわれる、神の完全性ゆえです。

「そんなの、理解できないことを“信仰”で麻痺させているだけじゃないか」

という声が聞こえてきそうです。

そのことについては、

1.ヨブは義人であっても、神の前では罪人でもある(ゆえに、言い訳の余地はない)。

2.ヨブは『ヨブ記』全体のメッセージゆえに召された(つまり、人間的な理解の及ばない、神の長期的なご計画に基づく)。

3.神は“全き人”である独り子イエスを、人類のため故なく捧げた(から、何かを言われる道理はない)。

ことで応答できるでしょう。

まだ50歳に届かない“善人の鑑”と表現する他ない母を、私は七年前に亡くしました。

それまで、大腿骨を折る重症など色々ありましたが、そんな苦難が無痛に思えるほど、辛い出来事でした。

「自分に何か降りかかるのは、こんな罰当たりには仕方ない。でも、なんでお母さんが…」。

それでも、神がいることに疑いなかった私は、聖書の中に未信徒が救われる道が書かれていないかと、必死に探しました。

「もし、母が救われないなら、僕の救いなんてあり得ない」

と思ったからです。

自由主義神学や異端、カルトのように、

都合よく解釈したり、文脈を無視したり、比喩的に読んだり、

“人間の混ぜ物”をすれば、未信徒の救いが読み取れなくはない。

でも、“無理やり”です。いたって不自然です。

聖書は、字義通り純朴に読むべきです。

なぜなら、

「ただでさえ人間が罪深いことが前提なのに、それに加えて複雑な解釈を要する書き方が、聖書になされているはずがない」からです。

字義のままに文脈を追えば、一貫した線が通っているという確固たる証拠が見えます。それを受け入れないのは、自分に後ろめたさがある、つまり、人に罪があるからです。

では、私は、「母が救われることはない」と諦めてキリスト者になったのか。

答えはイエスであり、ノーです。

確かに、私は諦めました。しかし、諦めていないのです。

どういうことかと言うと

「とことん無力なのだから、“自力”を諦めよう。その代わり、“他力”を諦めずにいよう」

そう決めたということです。

唯一の聖典である聖書には、

福音の三要素、すなわち、

1.イエスが私たちの罪のために死なれ、

2.墓に葬られ、

3.三日目に甦られた(今も生きておられる)

ことを信じる道によってのみ救われる

と書かれています。それ以外にはありません。

ただ、同様に、

〈未信徒が死の間際に、神と、どのようなやりとりをするのか

聖書には書かれていません。〉

聖書に書かれていないことは、「聖書には書かれていない」という立場を取り、詮索せず、

聖書が黙していることは、我々も黙す。

その姿勢を堅持すべきです。

そして、何より「聖書全体が語っている最重要のメッセージを忘れてはいけません」。

それは、

「神が全てを完璧に治めておられる」

ということです。

越権行為はしない。

する必要がありません。

どこまでも、すべてを最善に治めてくださる神に委ねるべきです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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