2.聖句の悦び

不倫とは。(参考→マタ5:28)

姦淫の罪…。「宗教では禁欲を押し付ける」というイメージは、未信徒であったかつての私がキリスト教をみていた時にも先行しました。

回心し“キリスト者の哲学人”となった私は、「姦淫がどうしていけないのか」ということを思索していました。

その結果、「淫らな行いを“明確な理由を以って”退けているのはキリスト教だけだ」と解りました。

マタイによる福音書5章28節には、

<淫らな思いで他人の妻を見たら、その時点で姦淫の罪を犯している>

という旨の、イエスによる有名な発言が出てきます。

この言葉を初めて聞いたとき、「随分と厳格だな…」と思ったものです。

でも、「どうしてそう言っているのか」については考えようとしませんでした。

先の、「宗教では禁欲を押し付ける」という“バイアス”があったからです。

しかし、“他の宗教”と、“キリスト教という真理”を混同すべきではありません。

「教理に誤魔化しがない」ことが、それを裏づけます。

「どうして姦淫してはいけないのか」。

イエスの言葉に置き換えると、

「どうして他の女性を淫らな目で見たらいけないのか」。

このことの答えは、“契約”にあると私は考えました。

キリスト教は、“契約に基づく教え”と言えるでしょう。

神と人類の“約束”をとことん重視するからです。

(ここで、

“約束”を“条件”と読みかえるのは少し違います。

「神との約束を歴史と共に詳細に記録した聖典は、聖書しかありません」。

それは、通読すれば誰でも分かることであり、

「救われるための条件をつけているだけだ」

という“読まざる批判”は筋違いです)

キリスト教に対する偏見、聖書を読みもしないでなされる批判…悲しいです。

どうして知りもしないものを堂々と否定できるのだろうか。

その理由は、聖書を“読もうと思えないから”でしょう。

知らないから誤解したまま遠ざけている、そのゆえです。

数年前、

大学での哲学の授業で、不倫について扱ったことがありました。

「結婚しているとは、どういうことか」

というテーマに対する答えは、

「結婚相手以外の人間と、結婚していないこと」

でした。

なるほど、

「不倫がなぜいけないか」というのは、“契約違反”のゆえ。

その観点からいくと、

社会が不倫に対して厳しい目を注ぐのは(精神への暴力行為ということに加え)、

「結婚という制度が破壊されかねない」

からだと言えるでしょう。

「不倫はよくない」

と、良心に照らし合わせて“なんとなく”ではいけない。

この世のことにさえ無頓着な者が、

“神との契約”に思い至れるはずがありません。

ただ、希望もあります。

人々は、「目に見えるものしか信じない」と言いながら、

実に多くの“不可視なもの”を大事にしているからです。

“絆”はその一つです。

その相手を本当に想う人は、

出会って間もなく肉体関係を持とうとしません。

相手を真に大切であると思えば、何かしらの契約を踏むはずです。

“約束をする”のは、“相手を信じること”であり、

“相手を信じること”は、“相手を愛すること”です。

目には見えませんが、会話というのは、“小さな約束の交換”です。

私たちは、見えざるものによって生きているではありませんか。

いわば、“会話”に内在する愛が究極的に深まったものが信仰です。

“約束の約束”つまり“契約”は、深い愛に基づくものであり、

その相手(神)が見えないところに、奥義があるということです。

さて、

「結婚の契約なしに肉体関係を持つのは不論である」。

このことから、

「肉体関係なしに裸体を見るのは不自然である」。

ゆえに、

「裸体を見るのは、契約が前提である」。

と導出できます。

そして、今回取り上げた、

“預言者の中の預言者”でもあるイエスの発言は、

今のネットによる“ポルノ依存時代” を予見したものでしょう。

契約の極端な軽視が、画面越しの不貞です。

「姦淫というのは、汚物のようなものです」。

身が深く浸かれば、それだけ多くの部分が汚くなり、

たとえどんなに浅くても、触れただけで汚れてしまう。

先日、

不倫を題材にしたドラマを偶然見ました。

「しょうもないなぁ…。僕なんて、ポルノすら見るのを“憚る”のに」

なんという高慢でしょうか。

全き神の目から見れば、罪に差異はありません。

姦淫は程度を問わず姦淫であり、殺人と並んで戒められています。

汚物から手を引かなくてはいけないのは、

それが汚いからです。

なぜ汚れを避けるのか。

汚れたくないからです。

なぜ汚れたくないかといえば、自分が清められたからです。

清さはどこから来るのか。

清さを保とうとする心からです。

その心とはなんでしょうか。

愛です。

愛は見えるものでしょうか。

見えません。

しかし、“愛の結果”は見えます。

どこに見えますか。

行為に現れます。

“わざ(行為)”は愛の“結果”です。

だからこそ、

愛“そのもの”である“信仰”は、

尊いものです。

ともすれば、

「尊いものを認めるのは、契約による」

という原則を適用すべきです。

キリスト教が“愛の宗教”と呼ばれるのは、契約に基づく教えだからです。

“かつて真理を追う哲学者だった、現キリスト者は言います。

「信仰は愛から来ます。愛は希望に向かいます。希望は信仰に還ります」

姦淫の罪を遠ざけるのは愛です。

信徒から神への愛(信仰)と、神から信徒への愛(恵み)です。

人は神の十字架によって清められます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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