2.聖句の悦び

除かれた罪のパン種。(参考→Ⅰコリ5:7)

“聖化”つまり信仰生活における成長は、神の恵みによる。

この重要な教理を知ってはいるものの、“解り”ませんでした。というのも、画面越しのポルノによる姦淫を避けることが、どうしてもできなかったからです。

生まれてこのかた、肉体的な貞潔こそ守り切っていますが、直接に身体が触れずとも、情欲に溺れたらそれは姦淫です。「直接、身体が交わらなければ致命的な罪ではない」と、どこかで言い聞かせながらも、“感覚的に”拒絶している自分がいる。この葛藤は苦しいものですが、未信徒の時にはなかった特殊なものでした。

『ローマ人への手紙』の7章は、聖化を自力で進めようとすると必ず失敗することが教えられています。しかし、それは“頑張らない”ことではない。続く8章で説かれるところは、「“行為(わざ)”を頑張らない」のが重要で、「“信仰(によって、恵みに応答すること)”を頑張る」のが肝要であるということ。そこまでは分かりました。

しかし、「恵みによって旧い性質が変わっていく」という実感はありませんでした。あったとすれば、自慰に及んだ後の霊的な痛みが増したこと。この痛みから、「もうしたくない」という思いが強くなっていくことが聖化の過程なのだろうか、と思っていました。信徒によって霊的な成長の速度が違うと聞いていましたから、私は、情欲を遠ざけるという最大の難所において地道な格闘をしているのだと。でも、どこか腑に落ちない。

福音の三要素を信じたとき、契約関係において罪に仕えていた私は、主人をキリストに変える手続きを履行しました。新しい“主(あるじ)”をイエスとしたのです(すなわち、主イエスと呼び求める信仰の獲得)。ゆえに、罪との関係は切れ、情欲という遊女は、私に対し支配権を失い、何もできなくなったのです。

Q.ゆえに、「罪を犯す必然性はなくなった」。にも関わらず、いまだ罪に隷属する感覚があるのは、どうしてでしょうか。

律法は、罪を明らかにします。「姦淫してはならない」と。当然、罪は戒めなければならないわけですが、厄介なのは、罪はその戒めを“橋頭堡(きょうとうほ;軍事拠点)”として利用し、誘惑してくることです。しかし、キリストの贖いを信じ自身の罪を十字架につけた私は、この世において死に、生きている者にしか適用されない律法は無効となりました。信徒には聖霊の内住が与えられ、そのお方が新しい基準となった。よって、罪は攻め入る拠点を失ったはずです。それでも、罪は相変わらず攻撃を仕掛けてくる。なぜなのだろう。

A.それは、聖霊という新しい“基準”を、旧い“律法”と区別できなかったからです。

さきにみたように、罪は「~してはいけない」という戒めの律法を攻撃の拠点にします。しかし、キリストを信じた時に未信徒として死んだ私は、律法が適用されなくなりました。そして、聖霊が住まわれ、新しい基準となられた。しかし、それは、「唯一なる神の第三位格なるお方が導き手となられた」ことなのであって、正確には、新しい律法“そのもの”になったわけではないのです。もし新しい律法が十戒と同じ類のものであったら、意味を失います。ゆえに、聖霊の基準は、「~したいと思わない」とさせること“でもなく”(それでは本質として変わらない)、「~することが“できない”」という、[霊的な内住の感覚を通した事実の提示]であるということです。つまり、“聖霊が新しい律法になった”という言葉の意味は、“信徒の体が贖われたことの証”であり、いわば“罪のパン種”が取り除かれて“聖霊の塩”が撒かれた事実なのだと。

使徒パウロの書いた書簡には、「信徒の“肉(旧い人)”がキリストとともに葬られ、霊的な復活をした」ことが繰り返し書かれています。『コリント人への手紙 第一』の5章では、信徒には古いパン種がもう入っていないことが示されます。神は人類の罪を御子イエスに転嫁して、消されました。ゆえに、キリストを信じた者はその救いに与るのであり、原理的に“罪を犯すことができない”のです。「~してはいけない」という律法(わざ)から解放され、「~できない」という状態(聖霊の内住≒恵みの導き)になったのです。

それでも、信徒が罪を犯さないわけではない。しかし、それは罪を犯す「必然性がない」ことを意味するにとどまらない。信徒は、罪に加担することはあっても、罪を犯す「可能性すらない」のです。つまり、「~したくない」と思う信徒自身は、罪を犯すのではなく、いわば、この世(主犯者)から罪を強要されるのである、と。しかし、もはや、次に神へ告白をするときのことを考える必要はありません。古いパン種はありません。発酵して膨らむ要因(罪)は贖われたのです。恵みによる聖化とは、聖霊の内住が与えられた平穏のうちに、汚れたパン(この世という罪の主犯)に自分から近づかない導きを受けること、すなわち、“聖霊が住わった私は、自発的には罪を犯し得ない”と信じることなのではないでしょうか。

「聖霊の律法とは、モーセの律法は犯し得ないという、いわば、“恵み”が“わざ”にまさる確約なのではないか」。

この理解の正否はまだ分かりません。信仰生活によって確かめたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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