2.聖句の悦び

十字架についたのは。(参考→ガラ5:24‐25,エペ5:5)

この文章を書いている私は、失意の底にいます。キリスト者には、常に希望があります。それは、神が共にあってくださるからです。私が苦しんでいるのは、希望の光を与えてくださるお方をこちらから拒んでしまったからです。何が辛いと言えば、このような痴れ者など、いっそ見放して下さったらよいのに、天の父は憐れんで、未だに私の心臓が脈打つのをゆるしておられるからです。

隠しても仕方ありませんし信仰生活の足跡を刻むのが本旨ですから正直に申し上げますが、昨日、ポルノに屈しました。きっかけは、頭に姦淫の現場が浮かんだこと。今までなら対処できていた自制が効かず、苦肉の策として二次元の画像で対処しようとしました(情欲が罪である以上、こちらも妥協策でしかありません)が、収まったと思ったところから攻め入られ、おぞましきバアル礼拝のような映像で行為に及びました。

私にはわかりません。イエス様は、私の罪を贖って下さったはずです。どうして、今もなお私のうちに罪があるのでしょうか。キリストの十字架を軽んじているのではありません。その贖いが及ぶ範囲に、理解が追いついていないのです。

福音の三要素を信じた時、キリストに起きたことが自分にも起こった。その時に消えたのは、

α)それまでの罪 β)これからの罪 γ)それまでとこれからの罪

果たしてどれなのでしょうか。

それまでの不義を赦され、天の父なる神と和解したという意味では、(α)でしょう。神に一度限りの完了形で義とされたのだから、今後、不義に定められるはずはないという意味では(β)です。それらを綜合すると(γ)です。思想的な観点で見るに、いずれも間違いではないと思います。ただ、罪と実際的に対峙するとき大事なのは、その種類というより実体、つまり「キリストの十字架にかけられたのは何か」ということへの明確な理解の“武具”を持つことです。

1)いつまで経っても真の意味で“情欲の罪”を遠ざけられない私が体験的に解すると、福音を信じた時、十字架にかかったのは、“種々の罪”ではありません。罪の“大元”ではなく、罪の“本質”が死したということです。罪の大元は“貪り”であり、罪の本質は“神からの離反”です。なるほど確かに、独り子をお捧げになったのを信じることは、神に立ち返ることです。罪の本質が消え、離反という不義から和解という義に至ったという構図も成り立ちます。では、十字架は、神との和解においてのみ意義あるものなのでしょうか。

2)しかし、聖書によれば、そうではありません(参考→①)。信徒は、情欲も十字架にかけたのです。ということは、罪の本質だけでなく、大元も死したのです。これは、論理的にもその通りです。大元は、言い換えれば原因ですが、本質(結果)が死するということは大元(原因)がなくなったことに他ならないからです。ともすれば、神からの離反(結果)がない以上、貪りという自己愛(原因)は消えているはず。外からの罪ではなく、内からの罪に屈する体験をしたばかりの私は、このことをどう捉えたらよいのでしょうか。

A.罪は死んだ。[どういうことか。自分に罪の意識がある以上、罪が生きているように思える。しかし、神に対して不貞を犯している自覚があるのは、信仰が生きている証でもある。つまり、信徒が過つとき、罪(貪りという原因に基づく行為)は犯しているが、その自覚がある以上、罪(神からの離反)は犯していない。先に見た通り、この二者は同じものであるから、「信徒は罪を“犯す”が、罪に“定められない”」ということである]

そして、このことは放縦の口実にはなり得ません。なぜなら、「罪深い自分を罪と定めない(=義認を一度限りで完了していただく)恵み」に定められていることに気いた信徒は、十字架への信仰によって神と繋がっているからです。つまり、≪信徒は、神から“罪と定められない”という恵みを受けている以上、その信仰(≒感謝)を持っていること自体が、罪人ではない(=義である)証である≫のです。「罪を赦されているのは、罪を犯したくない信仰に基づく」ゆえ「罪を赦されているから罪を犯していい」という式は成り立たないのです。

キリストの十字架は、罪を葬りました。それは、罪そのもの(神への離反)でありつつ、罪そのもの(貪る行為)ではありません。福音を信じた時、罪(に定められること)が葬られ、罪(を為そうとすること)への憚り、すなわち“聖霊の内住”が与えられた、ということです。その意味でもやはり、主イエスは罪を完璧に贖ったのです。

「救いは信仰と恵みによる」とはどういうことか。「信徒は、“神に赦し続けて(罪に定めないで)いただいている”という恵みを信じることで、救われている(罪から解放されている)実感を持ち続ける」のである。このことに理解が及んだ今、決して救いを失うことはないという安堵と、天の父にしてしまった不貞に痛みを覚えます。

大罪に対する赦しの恵みが有難いゆえに、後悔の念が槍の如く私を射抜きますが、今は粛々たる思いでその罰を受けなくてはなりません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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