聖書は、一つ一つの章に意味があり、どの巻として欠くべきものはありません。ただ、そのゆえに、「すべての巻が繋がる」という意味で『ローマ人への手紙』の重要性は特に目立ちます。
その9章から11章は、イスラエル民族に焦点が当たっているので、異邦人である我々は「とばしがち」かもしれません。しかし、救いに“接ぎ木”された者としてイスラエルを軽んじることがあってはなりません。さらには、すべての起点となった選びの民が救われることは、父なる神のご計画に間違いがないことの証明であるゆえ、聖書のバランスが保たれるという意味でロマ書の中心点はこの三章の間にあるとさえ言えます。
使徒パウロは、ユダヤ(イスラエル)人として福音を伝える身において「ナザレのイエスこそ預言されたメシアである」という事実を同胞が拒むことで彼らが救われないことを嘆きます。その状況が変わるなら自分は救いから漏れてもいいと言うほどのパウロの愛は、選びの民に馴染みの旧約聖書を引用しての説得へと向かいます。
「どうしてイスラエルは救いから漏れたのか」。そのテーマに際して“神の主権”について述べられますが、「わたしは手を差し伸べた」というのが神の回答です。父なる神は、旧約の時代からイスラエルにメッセージを発し続けておられました。しかし、預言者エリヤがバアル礼拝に参加している同胞から疎まれたように、彼らは幾度となく示された神の御旨を理解することができなかったのです(この史実はパウロが実際に引用しています)。それゆえ、父なる神に一切の非はありません。しかし、“契約の神”は、約束を必ず守られます。そのため「異邦人が先に救われることによってイスラエルに妬みを引き起こす」という方法を採られたのです。
今回の箇所は、異邦人信徒にそのまま適用できる信仰生活の知恵もたくさんありますが、イスラエルの救いを拡大的に解釈することも可能です。(もちろん、神の御旨通りユダヤの人々が救われることも考えなくてはいけませんが、)この“異教の国”において日本人信徒であるキリスト者は、使徒パウロのような心境だと思うのです。
では、未信徒の人々に何ができるのか。それは、信徒としての輝く信仰生活によって、まさに同胞の妬みを引き起こすことによってでしょう。
信徒は「神に偏愛はない」という事実を知っています。そして、その愛が「自由」にあることも。神は主権者ですが、その権利を強いることをしないのです。いわば「(これから回心の可能性がある)未信徒がいることが神の愛を証明している」側面もあるかもしれない、と。
身に降りかかった不条理ゆえに、神を信じられないという人の気持ちは、よくわかります。私は、並の人よりよっぽど救いから遠かったですし、異端的だったからです。しかし、だからこそ解ります。「不条理に思えることは、神に尋ねなければ不条理のままである」ということ、そして「父なる神と和解したとき、それまでの生涯すべての意味を悟る」ことをです。
未信徒は、父なる神と仲違いをしてしまっている状態です。しかし、神は怒っていながら、いつも一方的に歩み寄っておられます。求められるのは、福音を信じて振り向くかどうかです。
以上のことから、私が多くの日本人に妬まれるように“自慢”することは,「人智を遥かに超えた、これ以上ない存在に、義と認められた」という栄誉,「人の力ではあり得ない、神の力を体験している」という祝福,「生きながらにして、御国に足を踏み入れている」という事実.です。まだまだ、というか、語り尽くせないほどありますが、ここから先は信徒だけの体験的な知の世界です。そこへ繋がる福音の扉は、いつも開いていますよ。
今日はここまでです。
最後までありがとうございました。