1.背景
a)未信徒たち
→何かの素晴らしさを表現する時に「神」という言葉を用いる不敬虔な人が多すぎる。「神」という言葉が素晴らしいと知りながら疎かにすることは矛盾である。
b)サタン
→未信徒は「聖書は都合の悪いことを全部サタンのせいにする(ーα)」と言う。その論理に基づけば「聖書が正しいとき、自分がそのことを認めることができないのは自己責任だ(ーβ)」ということになる。事実、聖書は「教えを誤解するのは罪による(ーγ)」との旨を終始、語っている。つまり、条件αは誤解にも関わらず、そのゆえに条件βが、聖書的な根拠の条件γを導いていることになる。このことこそ、聖書の正しさとサタンの阻みを証しているのである。
2.本論
a)御名は不可侵
→神の名が、人間によって損なわれるはずがない。したがって、浅はかに「神」と呼ばわる人々は[神]を呼んでいるのではないということになる。
b)この世の神
→壊れた被造世界で神の“ように”振る舞っているのはサタンである。その狡猾さゆえに、どこから忍び込んでくるか分かったものではない。事実、「神!」などと軽薄に呼ばわってしまう人々の連鎖に見て取れる。彼らが呼んでいるのはじつのところ「この世の神」に他ならない。
c)律法の戒め
→旧約の十戒には「わたしの名をみだりに唱えてはならない」という父なる神からの厳命がある。まさに、現代の不敬虔を表している。ただ、この戒めが示す真の意味は「神の名を不適切に用いる時には、迷妄にさらされているゆえに“サタンを”崇めている」という所にあるのかもしれない。このような悲しみがある一方で、主イエスの仲介により信徒が「アバ、父よ」と語りかけることができる恵みは、なんとも美しい。
3.適用
a)信徒はどうあるべきか
→神がどのようなお方かを知っている信徒は、御父が忍耐しておられることが分かっている。その事実と未信徒の錯誤に胸を痛めつつ、毅然とした態度でいなければならない。そして、信徒は同様に、神の御名が貶められるはずがないことも知っている。不敬虔な人々が「神!」と呼ばわったときにはサタンが礼拝されるが、その事実を以って聖書の教えが正しいこと、すなわち[神]の確かな采配をみるのである。
b)神の采配
→この世の神であるサタンの敗北は決定している。その時、神の勝利はどのように成されるのか。そのことこそ、悔い改めにある。回心したとき、自分が[神]に対してどのような無礼をしていたのかを知る。そして、「主イエスの贖いによって、御父はかつての不敬さえも赦される」という恵みに触れたとき、回心者は父なる神の勝利を悟るのである。そして、既に信徒である者は、行為によって無礼をはたらくことがないように、堅く愛の信仰に立つことで御名を讃えなくてはならない。