1.背景
a)体験的な知
→なぜ私が筆をとって、この論集を書いているかといえば「聖書が真理である」ことを体験的に悟ったからである。聡き多くの信徒が「体験的にしか知り得ぬもの」として言語化することを躊躇う。そうあっては、かえって人々を迷わせてしまうだろう。ただ、兄弟の主張はよくわかるし、賜物もそれぞれであるから無理をする必要はない。悲しくなるほどに頑なな時代である。その中で私は信徒として召しをいただいていると思って、はたらきを続けるのである。
b)私の神
→自身の経験を通して、私は神の存在という“事実”を知っている。しかし、明らかにいらっしゃる、私が呼ばわる神は、他の兄弟が祈る“唯一の神”ではなく実はアキレウスではないのか。その答えはもちろん否なのであるが、その点についても曖昧にせず論じておきたい。
2.本論
c)偶像礼拝
→未信徒の人たちにとり間違いの大元は、神々という名のついた石ころである。選ばれたイスラエルでさえ、幾度も躓いたのだから、この異教の地においては尚更だろう。神社で手を叩くとき、それはどういう考えに基づいているのか。寺で手を合わせるときはどうか。そこに明確な説明ができるのなら、各人の主体的な選択に異を唱えるのはお節介でしかないのだが、“なんとなくの信仰”ほど危険なことはない。自戒も含めて強い言い方をすれば、理由なき盲信は<自分に手を合わせている>のと本質的に同じである。いや、もし自己の願望に従ってモノを拝んでいるということなら、本当にそうなのだ。
d)神々
→「~にご利益のある」という滅びへの文言は断固として退けねばならない。本当に願っていることなら、どうして[神]に対して祈ることができないのか。そこには後ろめたさという罪の意識と、潜在的な神への畏怖があるように映る。医者を例にとると、眼科医は目の疾患を専門としているけれども、全医療分野に通じていなければ医師として働けない。まして何かの祈りに応える存在であるなら、すべての祈りへの答え-すなわち全知-に通じていなければ対応不可能であり、応える資格がないのである。
e)唯一の神
→私は「自分の信じている神はアキレウスではない」と断言する。これまで生きてきたことのすべて-それこそギリシャ神話への傾倒の過去も含めて-私が聖書に立ち返った事実は“一人ひとりの人生に対する長期的な視野”を持っているお方でなければ決してできないことだからである。
f)自由主義に対して
→一見すると優しいが、その中心に愛はどれほどあるだろうか。「信仰は人それぞれだから尊重しあおう」という発言は<個を尊重するとは多を尊重することである>という理念に基づくが、文言のごとく自己矛盾に陥っている。<個を貫く“一”を尊重することによってのみ他者を愛することができる>のが真ではないだろうか。どうしてわざわざ人に嫌われるようなことをするだろう。千鳥足でホームの際を歩く者がいるのに「他人事」と目を逸らすことは、私にはできない。
3.結論
g)聖書の真理
→個を貫く“一”とは何か。[神]である。全66巻を読むと、その一貫性が分かる。聖書を貫くのは絶対者の愛であり、正確無比な整合性がその証明である。そこに疑いの余地はなく「この聖典が神に由来しないことはあり得ない」ということが、読めば分かる。御言葉を信ずる者は、発話者である神を信じている。
h)結び
→信仰心が誤用されてはならない。“ただ一つの信仰”においては、多神教はもちろん、無神論や科学信仰も退けるべきものである。聖書を遠ざけるきっかけは<キリスト教を騙って教えを曇らせる者に影響されこと>にある。[神]がこわいのか、“罪がさらされる”のがこわいのか。いずれにしても、その状態自体が解法たる聖書を証明する。