1.序論
a)福音の不達
→「祖父母(先祖)の救いはどうなるのですか」という心情。実によくわかる。私は福音を詳しく理解する前に、未信徒のまま祖父と母の臨終に立ち会った。もし今、二人がまだ生きていたら間違いなく回心していた。だから“機が合わなかった”というだけなのである。それだけで救いは無効になるのだろうか。これは啓示と福音、すなわち“光の量”に関する問題である。
b)救いの条件
→まず、重大な勘違いが散見されるので、ここにはっきりと断っておくが「洗礼は救いの条件ではない」。洗礼は、いわば“回心の記念”として受けるべきものであり、あくまでも信徒としての誕生日のような位置付けである。聖書の救いは「福音の三要素を信じること」によって成される。すなわち<①キリストは私たちの罪のために死なれ,②墓に葬られ,③三日目に甦られた>という三要素である。この福音には決して差し引きがあってはならず、以上の三要素を受け入れた瞬間に、その人は信徒となる。
c)福音の意味
→この三要素を受け入れたとき「本当に(心から)信じているか」が重要である。それというのも、この福音は、①アダムからの罪が歴史書を通して連なっており、その系図からメシアが現れたこと,②預言書に記されている通り、キリストが受難を辿って勝利されたこと,③黙示録の未来における復活に先立って、イエスがその初穂となられたこと,を受け入れる信仰に通じており、まさにここに「聖書全巻が集約されている」からである。したがって、福音の三要素を心から信じた者は、聖書-つまり神の全能性に基づく御言葉-のすべてを受け取ったことになるのである。そのゆえにこそ、この道以外に救いはないのだ。
2.本論
d)神のご計画
→確かに、福音が届かなかった人々を置き去りにするかのように信ずることに躊躇いはあるだろう。私自身、有神論者となってからも五年近くに渡ってそのことと向き合って、回心を先送りにしていた。そのうえで端的に答えると「聖書には、福音を受け入れる以外の救いについては“黙している”」ということ。間違えがちなのは「未信徒が救われる道はない」と無造作に断言したり「聖書を比喩的に解釈すると普遍的な救済可能性がある」と不自然な詮索をすることである。確かに、使徒パウロは「一般啓示(自然などの被造物を通した神の啓示)があるゆえに“弁解の余地はない”」と語っているが、それ以上のことは言っていない。だから、神のご計画について聖書が黙していることを無視して勝手に断言や曲解をすることは控えるべきである。
e)聖書全体のメッセージ
→まず、“未信徒が死の間際に神とどのようなやり取りをするのか”ということや死後の世界である“陰府(よみ)”について「聖書は黙している」ことを受け止め、その内容を無闇に追及しないようにすることが大切だ。そして、忘れてはならないのは、聖書全体のメッセージは「神が完璧な統治者である」ということ。よって、御父に全幅の信頼を置いて「今、自分に聖書の福音が届いたなら、受け入れることが“最善手”だ」と賢明に判断することである。
3.結論
f)一つの例
→聖書の黙している事柄は追及すべきでないことを示すために、敢えて、私が過去に考えたことを記しておこうと思う。私は回心して一年間は自由主義神学に傾倒していた。聖書を一部比喩的に解釈するなかで「“陰府”の存在領域はこの世(における生まれ変わり)にある」と考えた。これは「聖書の存在する空間にしか救いはあり得ないから、福音が届かなかった人には生まれ変わって新たなチャンスが与えられる」というものである(この考えはローマ・カトリックの“煉獄”に近いかもしれない)。例えば(あくまでもの話)だが仮に神がそのような考えを持っておられて、自分の子孫において先祖が生まれ変わる出来事があったとする。そのときに「先祖が信徒でなかったから」との理由で福音を受け入れなかったら…ということが仮想上、起こり得る。この寓話は「神の采配に人間の知が及び得ない以上は、どのようなご計画があるか分からないから、与えられた“機”をどこまでも大切にすることを最優先すべきである」ということをあらわすものだ。そして、聖書は輪廻を否定しているから、この「陰府=輪廻説」は“明確な間違い”であり、神の御心に反する“異端的な考え方”であることをはっきりと付言しておく。聖書は神の御言葉でありご意志だから、あくまで「文脈に沿って字義通りに読んで御心を受け取る」ことが大切だ。多くの人に救いが及んでほしいと思うならば、なおのこと聖書を尊ばなくてはならない。聖書が神の聖なる書である理由は、欠かすところのない御言葉の結晶だからであり、そのゆえに、純粋に受け入れることが正統信仰なのである。