3.威張るブログ

聖書信仰者。(参考→コロ3:17,エペ5:20)

1.序論

a)前歴

→私は父方が浄土宗、母方が浄土真宗の家系に生まれた。身内で信徒だった人は知り得る限りいない。しかし、27歳の時に私は回心した。幼い頃から“感性”が異様に鋭く、その賜物もあって神の導き自体は中学二年時から既に感じ取り始めていた。もっとも、当時は「神に自分の嫌なことを一日中祈ってしまう」という苦しい精神疾患の中にあり、それが一年も続いた。しかし今は、その苦難こそが私にとっての“祈り”の発露だったことを喜んでいる。

b)神学

→劇的な出来事を辿って、哲学を学んだのちに回心を果たした私は、洗礼は受けずに、その後およそ半年間、自由主義神学に傾倒した。やがて、その危険性に気づいたところから聖書を字義通りに解釈する“福音派”のキリスト者となった。しかし、先人が生涯をかけた福音派神学に基づいた研鑽を続けた私は次第に「キリスト教」の“在り方”に対して違和感を覚えるようになった。

c)疑念

→教会が正統信仰だと主張する“三位一体”の教理がその筆頭である。確かに聖書の記述に基づいて説明しようとすると、最善解に近いとは思う。ただ、私には(異端を反駁する必要などの諸事情はわかるが、)語句として明言されていないものを無理に“概念化”すること自体が、そもそも本来的ではない気がするのである。その不自然さは「教会における讃美が主イエスのみに偏っている点」にあらわれている。このことが問題なのである。もちろん、御子イエスはこのうえなく讃えられるべきお方だ。しかし、“偏り”は「父なる神に感謝しなさい」というイエスご自身の言葉に反するし、御霊(聖霊)を含めた御三方は「位格に差がない」というのが教会の主張ではなかったか。

2.本論

d)聖書信仰者

→そもそも「キリスト教」と名乗ってしまうと、他の宗教と明確な区別こそできるが“宗教”(本来は素晴らしい意味だと付言しておく)というカテゴリーのひとつになってしまうし“偽物”と一緒くたになってしまう。そして、どうにも「キリスト教」という“聖書には出てこない表現”自体が、御父と御霊を忘れて、主イエスだけを讃えることに繋がっているように思えてならないのである。だから私は、尊敬する先人たちが構築してきたキリスト教神学の恩恵に与りながらも、自身はあくまで“聖書信仰者”と名乗ることにしたのである。

e)教会

→そのような背景があり、私は地域教会の重要性を熟知しながらも通ってはいない。洗礼を受けて教会に通ったほうが霊的成長には幾分近道だ。しかし、「施設へ足を運ぶことに満足して信仰が“硬直化”する面がある」という懸念に加え、未信徒にとって「地域協会に通わなくては信徒ではない」との誤解を与え、さらには素晴らしい教会がかえって高い敷居となって“躓き”のもとにならないようにしたいという意図から「こういう信徒もいるという実例でありたい」と考えているのだ。

f)聖書が真理

→「キリスト教」的にはイレギュラーなこの“聖書信仰者”だが「聖書は神によって書かれたものであり御言葉である」という立場を堅持し、教えに反することはしていない(という自負がある)。聖書は正確に読みとって受け取り、そのうえで「神がこう教えておられているのは何故だろう」と“哲学”している。素直な人には「信仰すべきことだから」で無問題なのだが“日本人伝道”を目指す私は、素晴らしい御教えが「曖昧じゃない?」などと言われないように、できる限り言語化したいのである。逆に「書かれていることを出ない」ことも心がける。聖書が沈黙していることは「それが答えだ」という汲み取りかたである。そうするのは、宗教ではなく“真理”であるところの聖書には“書くべきこと”が、すべて書かれているからだ。

3.結論

g)伝道

→そのような私は「同胞が裁かれてはいけないから」という、これまでの動機では伝道しないことにした。終末や死後を強調するのでは、救いを得ていない異端者に似てしまう。本来の福音がもたらす「“完了形”であり“進行形”の救い」という“既得の喜び”のほうを強調しなければ、地上生涯において御国に至れる事実がうまく伝わらなくなってしまうからだ。

h)異教国にあって

→このような私であるが、愛の範囲内では語気を強めることがある。信仰の妨げになるものは時に糾弾する。ただ、信徒として成長過程にある私自身の青さを高慢にも無視して独善的になってはいけないから「読み手の皆さんから教わる姿勢を崩してはいけない」という方針をここに表明し、自戒として残させていただく。

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