1.序
a)死後のこと
→聖書には、死後の世界の存在が明記されている。しかし、『ヨハネの黙示録』において“象徴的に”書かれてはいるが、はっきり分かる形では細かく言及されていない。それは間違っても「聖書に隠された死後の世界についての秘密を発見しなさい」という意味ではない。そうではなくて「死後の世界はそこに至ってから楽しみなさい」と“沈黙という書かれ方”をしているのである。
b)ゲヘナについて
→だからして、信徒にとって死への恐れが減ずることは恵みであるが、伝道の動機がゲヘナを過度に強調するところにあったら異端的である。ただ、地上生涯において御国に至ることができる教理に基づけば、この世にゲヘナに通ずる側面があろうことは察することができる。聖書の教えを越えたら、それこそ破滅への入り口であるわけだが、異端と対峙する意味でも「限りなく聖書的に“御国の対概念”を定義する」ことは“世”と関わるうえで役に立つように私には思われる。よって、今回は敢えてその行く末を考えてみたい。
2.本論
c)聖書の教え
→まず、御言葉は“生ける神の言葉”である。その御教えは「存在の次元で救われる」ことを意図したものであるから(終末論は重要だが、)本来的には「死後に云々~」というものではない。そもそも、死後の世界を待ち望むことに必死で、この被造世界を疎かにしている人は救われているのか。聖書がこの世界にあるのは「厭世的にならないため」でもある。それは「救いは信仰と恵みによる」からして「救いが信仰領域にとどまる」ことはあり得ないからである。つまり、地上生涯を味わうことができてこそ、神の国がある(救いが定義される)のだ。
d)指南書
→では、聖書の意図はなにか。それは「被造世界の渡り方」を示すことにある。神が人類を愛しておられるのはもちろんだから“この世”を憎まれることはあっても「はなはだ善い」被造世界(の原理)を根本から創り直すことは(断定しないけれども)考えづらい。だからして、聖書における“新天新地”は、空間的なところに強調点があるというより、人間が悔い改めに導かれる未来としての時間的なところにあるように思われる。
e)地獄の門
→行き過ぎた考察は控えるとして、いま“この存在”において「信仰で救われる」ことがどうして大切なのかを考えてみたい。そもそも、人は自身が死したことが解るだろうか。死後の世界がどうあるにしても、結局のところ「ここは何処どこである」という“看板”を見なくてはわからないだろう。ダンテの神曲において「この(地獄の)門をくぐったらば、一切の希望はないと思え」というようなことが語られているけれども、その看板を信じない者には、仮にその門をくぐっても苦しみの原因は分からないであろう。そもそもゲヘナに堕ちたのは「愛を信じなかったから」であるからして、本当に恐るべきは“愛と密接する意思”を失って「本能のみに生きる獣(動物ではない)になってしまうこと」である。そうなっては「“人として”救われる可能性」は論理的にもあり得なくなるから、御国の対概念としての“この世”の行き先はそこかもしれない。
3.結論
f)看板
→先に論じた「ここはどこか」ということを被造世界において示しているものこそ“聖書”である。それは「ここから先は危険であるが、こうすれば安全である」という“愛の看板”だ。「禁じられると、立ち入りたくなる」というのは罪の性質であるが、看板の意図を真に汲み取れるようになれば「戒められた危険な道へ進みたくなくなる(行くことができなくなる)」。その変化は、美を求める愛による。ただし、この聖書という看板は、荘厳でとても長いゆえに、読み手は試される。しかしだからこそ、次第に確かな愛を歩めるようになるのだ。
g)この先キケン
→しかし、気をつけなくてはいけないのは“偽物の看板”があることである。立ち入ってはいけないはずの道を前に「この先でおいしい山菜がとれます」と書いてある。だから、注意しなくてはいけない。そして同時に「看板があったなんて…」という悲劇も避けなければならない。いずれも、正統信仰者のはたらきに懸かっている。
h)選択
→聖書は“愛の選択”を教えるものであるから「自らの意思で選び取る」ことに意味がある。しかし、そもそも「聖書という選択肢を誤解ゆえに知らなかった」としたら、それこそは悲劇である。しかも「愛ある人ほど聖書に躓く」ことが多い。愛ゆえに心を痛めて挫かれてしまうのだ。「愛なき者のゆえに、愛ある人は苦しむ」。その葛藤こそ本当は、御手が伸ばされている印なのだが。
i)結び
→ゲヘナにおいて聖書に代わるものがあるかはわからない。おそらく、自由意志を失った者が行くところであるゆえ「何もない」(滅び)だろう。しかし、意思あるところ-つまり愛あるところ-には、いつも聖書がある。だから、愛であれ。人であれ。「その看板を見よ」。