1.序論
a)教会史の宝
→異教からキリスト教を守るために先人が命を賭して確立した“三位一体”の論。私はそれを否定する気にはとてもなれない。しかし、疑問はある。「位格に差はない」という主張がありながら(讃えられるべきお方であることは当然だが)、主イエス“のみ”に讃美が偏っているのはなぜか。異端を排することに集中しすぎて、足元がおろそかになっていないか。未信徒だったとき“三位一体”に躓き、そのゆえに回心してからも度々異端的な理解に陥った私からすれば「反キリストとともに未信徒までも除けてしまったのでは」と感じさえする。基本的な理解と、過去に学んだ記憶が残っているにとどまるが、敢えて、再度教会史から三位一体論を学び直すことはせず、伝統的な“三位一体の盾”をもとにしながら聖書の記述のみに依って考えてみたい。
b)問題点
→最大の問題点は「“三位一体”を“キリスト教”の信条」としたところである。「神は唯一である。父なる神は神である。イエス・キリストは神である。聖霊は神である」と、聖書の概念をかの有名な図式とともに説明したところまではよかった。しかし、それを“キリスト教”の信条とした(せざるを得なかった)ことが、位格に差がないはずである聖書本来の教えから、主イエスご自身の「思いの限り父なる神を愛せよ」とのお気持ちに反して“キリスト”を偏って讃える状況をつくってしまった。このことを主イエスが喜ばれるか、私には少し疑問だ。「三位一体という聖書概念の“説明”」が信仰箇条になることが、硬直化をもたらしてしまったのだと。
c)その根拠
→聖書の教えを説明したものではなく、説明によって示された聖書そのものを信じることが大切だろう。つまり、三位一体の図式に基づいて聖書を読むことである。ある人は言う「論理で捉えられないゆえの奥義だ」と。なるほど、しかし論理もまた神がお創りになった秩序ではないだろうか。説明が信仰箇条になるとどうなるか。いたって簡潔な問い‐すなわち「神の国に至ったとき、そこで三位一体の神はどう在られるのか」‐に応答できなくなる。「信徒の内に聖霊が住まわれ、主イエスが長兄であり、御父が統べ治めておられる」のが“神の国”であろう。地上でなく「自分が神の国に至ったときに、三位一体をどう説明するか」というところに立たなければ、盲信に陥ってしまう。
2.本論
d)神は唯一である
→では、私はどう捉えるか。「神は唯一である。父なる神は神である。イエス・キリストは神である。聖霊は神である」ということは、当該聖句(→①)に明らかである。同時に、神とキリストが並列して書かれている箇所(→②)にも着目したい。これは新約のところどころにみられるが、キリストに対して、御父が“神”と表現されているのである。ただし、黙示録には「神である主、やがて来られる方」(→③)とキリストが語られる。さあ、どう考えるか。現状での私の答えはこうである。すなわち「神は全知全能である絶対的な権威者の“唯一の称号”である」と。力不足にも原語について私は語れないが、「神はおひとり」という訳より「神は唯一である」との訳が圧倒的に多い。そのことと、これまでの論述を踏まえると「旧約において先にご自身を示された御父が基本的に“神の称号”で呼ばわれつつ、主イエスと聖霊も等しく“神”という唯一の称号に値するお方であられる」ということが導出できる。この見地から新約を読むと全く違和感がないばかりか非常に自然である。三位一体という説明から聖書の御教えに立ち返るという本来性によって、神の国を信仰領域にとどめぬことが出来たのではないだろうか。
3.結論
e)異端とは
→冒頭に述べたように、私のこの論は教会史に基づいてはいない。先人が誰ひとり三位一体の図式を踏まえて“神という唯一の称号”との見解に至らなかったとは考え難い。もしかしたら、異端認定されたのかも分からない。そのことは存じないのだが、仮に異端的だと言われてもいわばこの“三位一称”論が「聖書的だ」と私は思う。異端的であってはいけない。しかし、硬直化することもまたよくない。ただ感謝するのみではなく、信じようとする告白(言明)を伴うことが、盲信的でないキリスト者の姿だと思う。