4.終始と三項

薄弱な感想。(参考→Iコリ4:18-21)

α:当該聖句では、神の賜物を受けていなければ聖書の教えを受け取ることはできない旨が述べられています。身近な人ほど伝道は難しいと知りつつ「僕の文章を読んでほしい」と勧めても、やはり拒まれてしまう状態です。未信徒だった時とは、明らかに“生きている軸”が違うので、自分が「異国語話者」であることは“誇り”でありながらも、そのゆえの苦しさがあります。愚かにも時折「僕の思想をつくりたい」と自分で“人間的な哲学”に走りそうになることもあります。しかし、もし私がそのような状態に陥ったら、それはもはや本当の私ではありません。確固たる事実として“神の国”の言語である聖句を「読めない」のに野次る人に対して、我慢ならないながら愛の狭間で葛藤する。それが私なのです。

§:世間を見渡すと、聖書ではなく“キリスト教”に躓いている人ばかりです。“キリスト教史”を私はほとんど知りません。あまり意味を感じないからです。本来、学ぶべきは歴史書に書かれた“救済史”であって、教えを曲解してしまった人たちの“失敗史”を知って「聖書」に手を伸ばせなくなるのは本末転倒な悲劇です。挙句、関心が向かうのは、人々を聖書から遠ざける情報ばかり発信する者が語る「キリスト教は間違っているよね」という“間違い”です。[聖書]と“キリスト教史への指摘”を結びつけるのは誤りです。そして、浅はかにも“サクラ”に騙されて「聖書を“キリスト教という表紙”でみてしまう」のです。

§:内容についてただしく触れている情報がないというわけではありません。しかし、その有益な少数の情報に対して、聖書に手を伸ばすのを阻む“敵”のほうが圧倒的に多いのです。「聖書の神は自己中心的だ」との“稚拙な感想”は「肯定論を踏まえていない」という点が致命的です。何かの文を否定するときには読まなければ始まりません。敵側にいる人に私は聞きます。「読みましたか?」と。「まず肯定があって、それに対して否定がある」というのが議論の鉄則なのに、それさえも踏襲していないので、論敵にさえならない。にも関わらず、表紙だけみて妨害するのです。さらに“頑な”とくれば、どこまでも厄介なわけです。

§:もしかしたら「聖書の内容をかじった」という人がいるかもしれません。しかし、くれぐれも「聖書を読んだ」とは言わないでください。聖典66巻すべてによって[聖書]なのです。何が言いたいかというと「救済の全体像を見ずして[神]を判断してはいけない」ということです。それは、ミクロの視点で言うと<「姦淫して“はならない”」という“戒め”を切り取って「姦淫して」と神が“勧めている”>と解しているようなものです。日本中の誰よりも「“未信徒”をした」と言っても過言でない私は、自身の過ちから「否定したいなら、聖書を“通読”してからにしましょう」と勧告します。これは“いのち”(すなわち“真の自己として生きること”)に関わることだからです。

Ω:世界に存在する“あらゆる教え”を知ることはできません。しかし「世界の“あらゆること”に唯一通ずる教えがある」。にも関わらず、それを悪の勢力が誤魔化した“表紙”や“サクラ”のせいで受け取らないなんて。だから私は、知らない他の教えを無闇に否定するでなく、私が知っている最高の教えを肯定し続けます。御教えの内容については「断言」します。そうでないと“洗脳”が解けないからです。「洗脳しようとしてるのはオマエだろ」と言われてしまうでしょうか。「聖書を読むことが洗脳だ」と習った記憶がないなら、聖書から離れさせる同調的な洗脳を、あなた自身が受けていることになります。私は言います。“キリスト教”に「入信」する必要はありません。ただ、「騙されたと思って聖書を通読してください」と。騙されていたのが誰かを知るのは、それからです。

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