α:私は幼少期から非常に特異な教育を受けてきました。「恵まれた」としか言いようのない環境で育ってきましたが、それゆえに苦しみがあったこともまた事実です。理系に進むことを前提に文字通り“缶詰め”状態で勉強していた私。結果的に高校3年次の夏、かねてから崩れかけていた精神を完全にやつし、療養四年目の10月から文転して勉強を始めて倫理学を学ぶこととなりました。「なんとなく」学歴を求めてスパルタ塾に通い、「無難に生きたいから」進学校に入りました。そうして、最終的に四浪の年齢で入った“世間的には”「中堅大学」と呼ばれるそこは、「どうして生きるのか」を保留し続けた私にとっての楽園でした。
§:哲学というのは、<「ある思想家」が生きた足跡を辿る過程で“真理探究の力”を養いながら、「巨人の肩に乗る」かたちで真理への近道をする>と表現できます。幸運にも私は“アウグスティヌス”(中世最大の教父)の肩に乗ることを選びました。本当についていたのは、彼が「聖書」という“生ける神の真理”に向かった人だったからでした。卒後に真理探究をしていた時を振り返ると「人間(自分)の思想」というのは“未来形で進む知恵”です。それに対して「神の思想(お考え)」というのは“現在進行形で理解すること”である。さらには「小学校で教科書をほとんど開かずひたすら討議していたのは“伝道”のためだった」というように“過去に起こったことの意味を知る”こと。そして「聖書の御教えを限りなく実行できるようになろう」という“未来さえ見据える完璧な思想”です。だから「聖書は“生ける思想”」なのです。
§:当該聖句では、そのような“聖書の教え”は「世の支配者が知らぬもの」である旨が書かれています。“世の支配者”とは誰でしょうか。「世」が“物質主義的な(愛なき)考え方”だとすれば、為政者に限らず人々の思考を曇らせる者を指すのでしょう。「影響力」があるのは、その人物の築き上げてきた努力によるものが大きい。しかし、それが真の「発言力」すなわち“愛に通ずる語りの賜物”とは限らないのです。我々は、影響力のある人物が「誰に召されたのか」を見分ける必要があるということです。思想は「確かめるもの」ですから、押し付けられて意思を失うようでは、その人たるところがなくなってしまいます。主体的真理でいいのですから「誰の肩に乗るか」をよく考える必要があります。私は“神の肩”に乗せていただいています。
§:信徒でなくとも、手元に聖書がある人は今回の箇所を引いてみてください。“旧約”から“新約”の一貫した救済計画が「創世以前から」計画されていたことが判ります。聖書は「キリスト教の権威が造ったもの」ではなく本質的に「神が聖徒を召して創った唯一の聖典」だという事実です。付け足しても、切り離してもいけません。それは読むときにもそうであり「全体を意識して」です。「遣わされた“代筆者”」を通して、旧(契)約に基づく新(契)約までを[聖書]として[神]が著された。『創世記』に科学の見地から異議を唱える人がいますが、忘れてはなりません。「科学は“未完”」であり「“覆りながら”進みます」。科学はいわば「科学者の思想」であるゆえ「“未来形で進む(不完全な)知識”の一種だ」ということです。あなたは、存命のうちに進化論が覆るのを目撃できるでしょうか。
Ω:正確には「探究するのが知識」であり「体験するのが知恵」と言えるでしょう。あらゆる体験というのは、なんらかの形で神が導いたものです。ですから「“知恵”は神から賜るもの」だと。聖書的に言うと、世に関する知識は消えます。やがて世が消え去るからです。しかし、聖書の御教えは消えません。神の国は到来するものだからです。真の知恵は、聖書の御教えを神の導きのなかで体験する(賜る)ことで得られます。「恵み」という教理をわかりやすく喩えれば「聖書的な体験」なのです。先に書いた通り“後になって”「あの時の経験は…」と解ることがあるでしょう。しかし、体験に意味を見出せるのが早いに越したことはありません。“神の肩に乗る”ベストタイミングは「いま」です。どうか、聖書を開いてみてください。