4.終始と三項

怒りの闇。(参考→エペ4:26-27)

α:信徒には「神に操られている」という感覚などありません。そうでなくて、回心した者にあるのは「神に応えられていない」という“やるせなさ”です。未信徒だった時は気にもならなかったことが“膿”のように表出します。その度に「こんなことじゃダメだ…」という気持ちになりますが、それこそが“キリストに似た者となる”過程としての祝福なのです。私は「物にあたってしまう」ことが多かったのですが、それが治まり、今度は「周りの人に理不尽な苛立ちを感じてしまう」ことが多くなりました。「態度としては表れない」という成長の反面、これは“モノ”から“人”に対象が移っている意味では「後退」にさえ思えます。

§:当該聖句では、怒ることそのものについては戒めていません。「忍耐を覚えなさい」というのが聖書の教えですが「怒ってしまうことも時にあり得る」という許容でもあるかもしれません。しかし「怒ったままではいけない」と明確に書かれています。“図星”とまで言わずとも「どこかしらで的をいたこと」を言われると、否定したくなるものですが「自分の至らなさが指摘されている」ときに、それを認めないことは“傲慢”の罪でしょう。怒ることそのものでなく「その負の感情を引きずってしまうこと」がまずいのだと。

§:怒りそのものは、罪の本質である「貪りの支配欲」に当てはまるでしょうか。精査すると、基本的に「自分に非がない(俺は間違っていない)」という前提で怒っているので“高慢”だと言えます。それは、怒っている相手に対して自分を高く位置付けている意味で“支配”の構図に当てはまるでしょう。しかし、怒りは「悪魔に隙を晒す」という可能性につながる点こそが真に危険です。すなわち“理性的な意思”が激しい怒りで「鈍る」ことです。聖書の御教えは言い換えれば“愛を動機とする意思の教え”です。ですから、理性が鈍ると“信徒”である自分が悪魔に誘われ「闇」に堕してしまう“隙”になってしまうのです。よって「蝕まれない」ために、怒りを放置しないようにしなくてはなりません。

§:では、怒りを鎮めるにはどうしたらいいのでしょうか。これは、あらゆることにも通ずることだと思うのですが「認めること」がコツなのでは、と感じます。「自分が怒っていることを認める」,「怒りの根本原因は自分にある」,「怒ってしまうほど自分は青い」,とにかく険しい顔をしない。むしろ「しょうもないなぁ」と笑って受け入れることが理想かもしれません。基本的に、自分が怒るときには、相手にも少なからず非があることがほとんどでしょう。しかし、自分に忍耐する度量があれば事足りるはずで、相手を変えるより自分が変わったらいいのです。…とまぁ、理想論は語れるのですが難しいことです。ただ、私は「自分を大きく見せようとするほど、人は弱くなる」ことが経験上、分かっています。カッコつければそれだけ、コケたときにダサいわけです。本当に美しいのは、自分の弱さに正直な人だと思います。聖書が信仰によって「誠実な品性」を練ることを勧めている意味はそこにある気がします。神の前に己が小ささを知り、恵みを“受けていること”を誇りなさい、と。

Ω:罪の本質である貪りは“性質的には”「占有的な執着」を持っています。支配というのは、モノを従属させて「自分だけのものにしたい」ことに発するからです。聖書の御教えは「愛」です。それは「相手の独自性を認めて尊重する」ところにありましょう。ただ、そのことを「解放」と言ってしまっていいのだろうか。ここが難しいのです。つまり「聖書に記された真の愛を伝えるには、相手の考えを否定せざるを得ない場合がある」というジレンマです。そのゆえ私は、聖書を“選択肢として提示する”ことを第一に考え、各々が選びとることができる状態を何とかしてつくりたいです。ですから、私は自分が「“非力で”、“打たれ弱く”、“不器用で”、“無知である”」ことをはじめ、己が弱さを隠さないで伝道していきたいです。「何で世の人は頑ななんだ」という悲しみも、自分の至らなさゆえだからです。申し訳ないことに、私のメッセージで気を悪くする人もいるでしょう。しかし「この男に反論を突きつけて一泡吹かせてやろう」という動機でもいいので、聖書に興味を持って欲しいです。あのパウロ先生でさえ、かつては信徒に敵対していたのですから。

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